雨の中を歩く・・。
夜明けあたりから降り始めた密やかで、まるで音を立てることをはばかるような軽いこまかい雨の中を、歩いてきました。
赤や黄色や濃いピンクや白のつるバラや懐かしい香りの淡い紫や白のラベンダーの絡んだ家々の前のぬれた道には、バラの花弁が散り敷かれ、柔らかな雨を受けてさらに鮮やかに勢いづく新しい緑たちに負けじと さまざまにそれぞれを誇示するかのように元気よく咲く花々とも語らいつつ歩くという 雨中散歩でした。
人が、水で出来ている―人の体内には平均して75%の水分がある―ということを、なんとなく こういうときに実感してしまいます。
そういうものをお読みになられるのかどうか・・、かつて猫十字社というところから出していた『小さなお茶会』という猫さん達を主人公にした大変詩的で とてもメルヒェン、おまけに時々哲学的でさえあるという漫画があったのですが、その中に 雨の日はゼリーなの、というフレーズがあった(確か・・)んですね、で、実際そこにはゼリー型から抜き出してお皿の上にぷるんとのっかったゼリーの中に とぷんとゆっくり飛び込んだ猫さんがゆるゆると 少し眠たげにたゆたっているかわいいイラストがあって、そうそう 雨の日ってこんな感じ と思いました。
そういうものに少し近いでしょうか・・、私が雨の日に「人が、水で出来ていることをなんとなく実感してしまう」というのは、この私たち一人一人をきちんとそのものとして安全に、なおかつ個の確立の目に見える形態として己と他との隔てを作り出す皮膚、人の体表をすっかり覆っている皮膚の在りようが 曖昧になるような気がするからなんです。
つまり・・(体の)中も外も水であるならば、例えば海に入ってぷか〜っと浮いている
時に感じるあの大海との一体感―自分が海の一部のように思える瞬間―に近い感覚 といったらいいでしょうか・・、なんか そんな感触を、呼吸を通して胸に入ってくる水を含んだ空気や肌や髪の湿り具合、傘からはみ出している部分にまとわりつく水滴やぬれた布に触れた感じなどから、おもわれてしまうのです。 |
まどろみの木の下で・・
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あるいは逆に、ものすごいカンカン照りの中をだらだらと汗を流しながら歩く時、自分の体内から外に向かって出て行く沸騰した湯の蒸気のような熱い息を感じ、皮膚に浮く汗粒を見るとき、自分の中からどんどん水気が失われていくような気がして、なにやらやたらに焦るような思いに陥るような時があって、そんなこともやっぱり人って水なんだなぁ と思う瞬間ではあるのですが、そのように普通に この国の四季を暮らしていると、あるときふと自分の皮膚一枚の所在の危うさのようなものを 感じてしまうことがあります。 |
雨の日のそれは、皮膚を通じて内と外との水分の行き来が、まるで音を立てて流れるように行われているようで、自分という存在とそれ以外の天然との一体化、あるいはお互いのお互いのうちにおけるそれぞれの内在を気づかせようとする作用のように思うのです。
自分が、細胞レベルで自然と一体になることの可能性を、ただ普通に生きながら感じられるなんて、なかなかすごいことだ、と思ってしまうのですが、この感覚は恐らく、次の瞬間への―つまり、この先の自分の存在がこの世にあっては無になるという現実に向けての―前表のようなものではないか・・と 自分は 時々 考えたりもしています。
それにしても、すべての肌トラブルの原因とも言える 肌内外の水分不足が引き起こされる様々な老化現象(しみ、しわ、にきび、吹き出物、肌荒れ、アトピー、くすみなどなど・・)などと一緒に先に書いたことを考えますと、私たち人間にあってしかるべき水分を理想的に保つためには、口からの水分供給や肌の手入れによる水分保持などの現実的手段とともに、もうひとつ、水分をたっぷり含んだ瑞々しい脳?による 先のようなことをイメージする想像力も ある意味では物理的対処よりも ひょっとしたら有効かもしれないと思っているのです。
イメージトレーニングの一種ですが、望ましい状態をビジョンとして持つこと、そうイメージすることで、水分が肌に満ちてくる ということも あることなのです。
老化=水分の枯渇は例外なくすべての人に そのそれぞれの時間の経過とともに行われることですが、この水の季節、あらゆるものに含まれる潤いを存分に自分のものにしてしまいたいと欲深なことを願っているのですが、それでも赤ちゃん肌にはなれないですね。
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