Aurea Ovis

きょうは『金羊日』

3月

1 My memorial day

2 My memorial day and

3 「忘れない」 という 言葉から 

4 春の訪れ

 

1 My memorial day

 よく晴れている。風もあるから 今日は 久しぶりに 洗濯物が気持ちよく乾くだろう。

 このところ、ずっと 雨だったり 重苦しい曇りの日が続いていたから、今日の陽射しは、とても うれしい。・・・ 寒いのを除けば、だけれども。

 昨晩はFRUTTOで 食事。

 お店で待ち合わせて、少し遅れてきたタコ氏、大奮発の「シェフお任せコース」は、最初から最後まで、どれをとっても はずれ無しの大当たりのおいしさ!

 たしかに素材はいいのだろうけれど、それにしても なぜ、同じ魚が 同じ野菜が、同じ肉が・・、とろけるようだったり、素晴らしく互いの味を引き立てあったり、香ばしくも暖かな優しい味になったりするのだろうか・・! と お皿が変わるたびに、二人で あまりの旨さに、笑いあってしまうほどだった。

 パスタは すべてシェフの手打ちというそれらには、シェフの人柄さえ感じられ・・、なるほどなぁ、やっぱり あの人だから こうなるんだねー・・ と、ごく 当たり前に納得しながら せっせと口に運んだ。

 この店は、ソースがすごい! ただ 旨いのではなくて、凄いのだ。

 聞けば、まだ年若い店のオーナーシェフの技量とセンスは、失礼ながら その年齢で・・ と 思ってしまうほど、毎度うなってしまうし、
 フロアを 穏やかに見渡し、絶妙のタイミングで、丁寧に 度ごとに まるでしつらえるように、テーブルの上にプレートを並べる 明るい笑顔のマダムのサービスは、そのおいしさを 何倍にもしているように、いつも 思えるのだ。

 ほんとに、どの料理も、ひとつひとつがきれいで、おいしい。
もう 多分 次の料理は 入らないと言うほどに おなかは膨れていたのだけれど、眼で見てしまうと、、 一口くらいなら・・が 結局 平らげることに・・。

 それでいて、まったく おなかにもたれない、この 凄さは、葉山のほかでは、なかなか 味わえない、とくに このFRUTTO以外では、どうしても 味わうことができないものだと心得ている。

 素晴らしい食事をさせてもらえたことに 感謝。
これは、FRUTTOにもだけれど、タコ氏にも!

 この世に生まれてからこっち、毎年3月の11日は わが誕生日だった。
そして、あの 東北大震災から1年と言う昨日の同じ日も、もちろん 自分は 誕生日を迎えた。

 もう、子供の頃のように、はしゃぐほど 楽しい日とは いえないけれど、でも やっぱり 一年 また 生かしていただいたことへの感謝の日でもあり、とくに 去年からのこの一年には、両親のかなりの変化を伴うことになったそれでもあったり、また、年々自覚する 自分の体の衰えを、とみに感じたそれだった ということもあって、もちろん考えてはみたけれど、やはり、こういうときだからこそ、ある意味 ちょっとだけでも 経済をまわす という 無理やりな理由付けを加えもして、・・ そして 前述のように 相成った・・ という、昨晩だったのだ。

 もう お約束になっている、黄色いブーケ。
いつもお願いする 新逗子駅そばの、フラワーエクスプレスでは、キャンドルナイトの最中だったとか・・。

 その オーナーさんは、こちらをよくわかってくださっていて、素晴らしい&素敵+ゴージャスなブーケを、髭面のタコ氏に わたしてくださった・・ と。 
 ちょっと そのときを想像したりしてみたが・・・ う〜んorぷぷぷ な感じ・・ ^^;)

 それをもって お店に入ってきたタコ氏。その様子を見たとたん、なんだか ちょっと 笑ってしまったけれど、でも やっぱり ありがとう!ではありました。

 大好きな黄色、お日様からのおすそ分けのミモザとバラが たっぷりまとめられ、浅いリーフグリーンとミモザイエローのラッピングペーパーに包まれた 大きなそのブーケは、食事の間中、隣のテーブルの上に 鎮座ましましておりました。

 このオーナーさんのセンスは、ほんとに 抜群。素晴らしいを通り越しているように思えてしまう。 それを、そのまま すっかり いけてしまえると善いのだけれど、ここには それほどの花瓶がなくて・・

 なので、大体 2〜3箇所に分けて、あちこちを明るく、見るたびに 気分上々になれるように 置いて回る。
 それがまた、心楽しい作業ではある。

 これ以上太ると いろいろ不都合が・・ という自分に、タコ氏、チョコレートの山を プレゼントする・・ その心は・・?? ではあるけれど、でも まぁ よし! 当分 不足にいらだつことなく、心置きなく? ありがたく頂戴しつづけることが できようというもの。

 ・・ しかし、買い物袋に 直にいれて、手渡すってのも・・ だけどなぁ ^^; ま いいけど

 あれこれ 思い悩まずにはいられない日になってしまった誕生日だけれども、考えてみれば 誰の誕生日であっても、かならず 誰かの命日なわけで・・

 まぁ そう軽くいえるようなものでもないのだろうとは思うものの、やはり どこかで それはそれ、と 線引きしたいと思う。

 ほんとに スペシャルな日に なったなぁ・・と 思うばかりだ。

 

 

 

2 My memorial day and

   夕べ、出かけてたタコ氏から 電話があって、先にFRUTTOにいってて ということで、とても 近いその店まで、星空の下、ちょこっと歩いていった。

 その ほんの数分の間に
あの日の夜、黒々とした濁流の中、寒くて冷たいまま、何かにしがみついて、怖い思いをしながら過ごしていた人たちも いたんだろうな・・
  
 めちゃくちゃになった 家の中で、暖房も 電気もなくて、冷蔵庫に残っている物を 不安に駆られつつ かじっていた人たちもいたろうな・・

  閉じ込められて 声を上げても 誰の返事もなくて、寒くて 冷たくて 心細くて 怖くて 哀しくて 辛くて・・ っていう人も いただろうな・・

なんて 黒い夜空の星を眺めながら ふと 思ってしまっていた。

 でも お店に着いちゃうと そんなこと どっかに行っちまう。 まったく 人間って・・っていうか 自分って かるいなー。

 忘れない、という 言葉を使うほど、人は 忘れちゃうことが多くなっていくのかもしれない。とくに 実体験しなかった者たちは・・

 でも それは だれにも責められないし、とがめられることじゃない。
思い出すときに、丁寧に思い出せばいい、と おもっている。

 ただ、そうしようとする時、なんだか 実際 自分では 一度もそんな経験をしていないというのに、あれ依頼、時どき、そのニュースなどに触れると、軽く 吐き気をもようしたり、おなかの一部が ちくちくと痛んだりすることがあって・・
 おそらく、 まだ ちゃんと 向き合えてないんだと思うけれど、でも こんなことに どうやって ちゃんと 向き合えるって言うんだろう・・・と 今だに、思い悩んでしまう。

 かの地から これほどに離れている自分ですら そういうときがあるのだから、現実にそれをすごさなくてはならなかった人たちにとっては、もっと ずっとずっと 強くきつく それは まだ身近なんだろうと 考える。

 経験していない自分は、気をつけないと、ただ 無闇に怖がったり 嫌がったりすることで、ストーリーを作り上げてしまい、それを思い続けてしまいそうで、 それではいけないと 思いつつ、もう、忘れたいと 実はおもったりもする・・

 その後の原発のこともそう。 タコ氏は 若くて、義憤に燃えて、熱をこめて その始末の悪さや対処の不適切なこと、政府や学者の嘘偽りの流布等を 話し、それは 聞くことはきくければ、そういうことが 耳に入ってくると同時に、その入ってくる部分のみを残して、どうも 自分は、シャッターを下ろしているような・・ そんな感じがするときが 多かった。

 本当のことは 知らなくちゃいけない、聞いておかなくてはならない、それは ほんとうに そう思う。 

 そして、自分は 知らない間に、先のような 妙な反応が 起こるときが でてきていた・・ のに、ようやく 気付いたところだ。

 だから・・ 一年を 一年と 数えられないのかなぁ ・・と。

 別に だからなんだ というのは まったくないのだけれど、ひょっとしたら、そういう人も いるかもしれない・・ どこかに。ほんの 少しの人たちだとしても。

 ちょっと そんなことも おもった 昨日でもあった。

 

 やはり、『時』だけが それをなだめ、平らかにしてくれるのだろう、と こういうときにこそ、実に 思えてならない。

 

 

3 「忘れない」 という 言葉から

見たくない気持ち

Posted on 2012年3月8日 by 大平一枝

仙台に住んでいる人の書くものを読んでいたら、震災特番も一切見ないし、「3,11あの日を忘れない」みたいなタイトルもいやだとあった。たった1年で客観的に映像をみつめられるような程度の傷ではないということなのだろう。「3.11を忘れるわけがないのに何故そんなタイトルをつけるのかな」とも書かれていた。報道の東京発信の目線に今さらながらに気づかされた。それでも発信しないようにし続けたほうがまし。ましだけど、もっともっと私たちは、全力で寄り添わなければいけない。軽いパンチを食らった気分になった。

 そうなんだろうな・・と 思う。

実際 自分も なんだかなー と 早くから あの惨事が遠のくに連れて遣われ始めていた「忘れない」風の物言いに、なんともいえない 違和感を感じていた ということに、先の文の中で 気付いた。

 軽いパンチ・・ 
こういうことって 結構 あるんだろうな と おもう。
自分にとっては、なんの抵抗もなく使える言葉が、だれかにとっては、おそろしく無神経だったり、深い意味もなく、妥当と思って遣って言葉が、相手にかなりのダメージを負わせるような結果をもたらしたり・・ 

 言葉って ものすごくデリケートなものでもあるし、だから 文を書いたり、それを人目にさらしたりするときは、十分気をつけて・・なんて おもうし、そうすべきと思いはするものの・・、あるいは、人と話すときに、とくに なぐさめたりする時やほめたりするときなどには、うっかりすると まったくそんなつもりでなんか 言ってないのに、そう受け取られてもしかたないような言い方をしたりしていることに、後になって気づいたり・・

 そういうことをした、と気付く時は いつも、そう 軽いパンチを食らったような・・

 別段 意識して 相手をやり込めようなんて これっぽっちも思ってなどいないのに、そんな結果になってしまったときは、相手の心理状態も、まぁ あったとしても、でも やっぱり 発する側は、あとちょっとだけ 気遣いがあっても・・ と 思うことは、これまで生きてきて、、そう、なんども 何度も あった。。と 思う。

 ずいぶんと、それこそ 軽い反省のように 思えるような文だなぁ・・と 書きながら思ってしまう・・。

 とにかく、まだ あれから たったの一年しか経ってないのに、60数年前のことを忘れないようにしよう、という呼びかけるのに似たものを感じる・・ という、それは、やっぱり なんか違うだろう・・という 気分になるのだ。

 それって ずいぶん 昔の、ひょっとすると 日常で それを意識することが ほとんどないこと みたいな、そんなことに対する思いに限りなく近いように思える。

 だからといって ふさわしい言葉は?と いわれても、うーん・・ と なってしまうのだけれど、なんだか もうちょっと 違う言い方をしたほうがいいんじゃないか と、番度 感じているのは、おそらく 自分だけではないだろうと思うのだ。

 

 物を言ったり、書いたり それを それほどの広さではなくても、人目にさらしたり・・というのは、ほんとに 気をつけないと、と おもう・・けれど、いつも それと対でおもうのは、読む側のことで・・

 自分も 人からメールをもらったり、書いたものを読ませてもらったり ということは、度々あって、そういうとき、この人は、それほどの意味もなく こういう言葉を使っているんだから・・ と 自分をなだめることも たまに ある。

 その人の性格などからすれば、別に なんの悪意もなければ、こっちに刃をむけようなんてこと、これっぽっちも思ってないってのは よくわかるのだけれど、それにしても ・・と おもうような物言いを目で読んでしまうと、つかれているときなどは 特に、むっとする以上の、嫌悪感に近いものを感じてしまう。

 そういうときは、時間を置いて、また 読み直し、その人の それを書いたときの心情などを 思ったりしつつ、なるべく 腹の立つような言葉のところを 流し読みなどして・・?・・ やり過ごしつつ、返事を書いたりする。

 

 まぁ・・ 言葉と言うのは ことほど左様に厄介なもので、
でも、言わないでいられない、だから 書いた、というこのも、じつは あるのだ、ということに 気付くべきだろう と 考える。
 なぜなら、我々は 未完の者なのだから。

 いくら年を重ね、いくら様々に経験を積み、相手の心を慮ることを どれほど 深く大切に思っていても、人は 結構 簡単に 失敗するのだ。

 それが 自分を含めた「人」なのだ、という 認識を もっていたいと いつもおもう。

 。。。ちょっと えらそうだけど、そういうことに 腹を立てて 怒って反駁するというのが、そろそろ しんどくなっている自分になりつつあり、相手と 正面から渡り合おうという気を保つだけの体力がないので・・ というのが、実のところではある。

 

 しかしながら、たかだか 一年と言う月日が過ぎたというだけで、「忘れない」 と言われて、こんなことを書いている自分が一番、先の震災との距離が開いている日々を過ごしているのかもしれない。

 私たちは 有限の生き物。その皮膚とこの皮膚との間には、どうにもなじみあい、浸りあい、混沌と交じり合うような、そんなことは 人が存在する限り、生き物が存在する限り、肉体的には 決してないことなのだが、ただ、心は・・

 心は、思いを馳せることや思い遣ったり、気遣ったり・・、日々、心に思うことで、多少の互いの重なり合いや行き来は、できるだろうことは、普通に生きていれば、だれでもが経験していることだろう。

 ただ、先のようなことについては、誰かを思って自然にその人で 心が一杯になる、というのとは別の、意識的におもうことで 心にそのことを満たしていこうとすることで、思い続けられるのだ、ということに、意識していた方が いいように思う。

 我々・・ 自分も含めて、やっぱり、忘れっぽい生き物なんだろうな と。

 考え続ける、思い続けることにも 体力は いるのだ、と そんなことを思うたびに、いつも 感じてしまう 近頃ではある・・。

 

 

4 春の訪れ

  昨夜の雨の上がった早朝、鶯の初鳴きを聞く。

 まだ それほど上手とはいえないけれど、力強く、くっきりと 体一杯で 叫ぶように鳴いていた。

 地面に散り敷かれた 丸い小さな梅の花びらの上方では、早咲きの桜が 頃合い良く ほころび始めて、淡く 朝の光をたたえていた。

 

 いつものコートを 着ようかどうしようか と迷った末、一重仕立てのウールのそれを選んだのは、すこし 風に冷たさを残しつつも、やわらかな陽射しや空気の、先の季節とは 明らかに違う感じを受ければ、正解だったな・・ と 思う。

 家の中では タコ氏のくれた 黄色いバラたちが咲き誇り、外では そちこちで、約束された春の花のそれぞれが のびやかに、子供らの笑顔のように 咲いている。

 良い季節になっているのだな・・と 思う。。  

 ・・のだが

 この時季は、タコ氏の鼻も 赤らんで・・、水気のある昨日今日はともかく、湿気のない日のくしゃみの連発でも、もう、すでに 当方には春が来ている。

 なんとかならんか と 思いつつ、、せっせと甜茶を飲ませるのも、春の恒例ではある。

 

 

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