Aurea Ovis

きょうは『金羊日』

2010年 8月

 

1 意図的な殺人

2 8月6日

3 8月15日と母

4 お話のページ

 

1 意図的な殺人

 供述によると、下村容疑者は6月下旬ごろ、居室から玄関へ通じる室内ドアにも外側から粘着テープを張り、長女、桜子ちゃん(3)と長男、楓ちゃん(1)を居室部分に閉じこめ、置き去りにして外出したことが判明。約1カ月後の7月29日に部屋へ戻り、2人の死亡を確認したにもかかわらず、放置して部屋を離れていた。

 下村容疑者は「ご飯をあげたり、お風呂に入れたりするのが嫌になり、子供なんかいなければよかったのにと思うようになった」と供述。「すべてから逃げ出したくなり、子供2人を残して部屋を出た。ご飯や水を与えなければ、小さな子供だけでは死んでしまうのは分かっていた」と述べていた。

  これは ナチの発想と同じ。邪魔なもの 面倒なものは排除する という・・。

 問うべきは、人が 意図的に殺されたという事実、
 それも 自分で生きる術を知らず、また 自分を伝える手段を持たない小さな子供達が殺されたという事実、
 その子供たちに直接手を下して殺したのが その子供たちの母親だ という事実・・、

 そこから 問題がずれてはいけない。

 母親の元夫、それぞれの血縁者たち、隣近所に住んでいる人たち、日々接していた人たち、児童相談所の人たち、子供たちの泣き声を聞いた事のある人たち・・も、勿論、罪を問われなくてはならないのは 自明のこと。(あるいは殺人幇助・・になるのだろうか。)

 そして それぞれに償いを課すのは これまた 当然のこと。

 それ以上に、これは尊属殺人で、直接 手を下して殺したのは、亡くなった二人の子供たちの母親である下村容疑者だ ということは、なにをどんなにしても 変わらない事実、現実。

 

 余談だが、この事件についてのコメントを書くサイトで、事件現場のマンションの入り口に連日、食べ物飲み物衣類の供え物があるという報道に対して、「それは もう 完全にそれを供える人たちの言い訳でしかない、それは 子供達が泣いているその時に 渡すべきものだったのだ。

 飲み食いできなくなってから そんなものを 供えたって 何の意味がある?
それよりは 今 自分の身近にいるだろう、同じように 泣き叫んで助けを求めている子供たちに、食べ物を、飲み物を、清潔な衣類を、安心できる時間を上げてほしい・・」という 意見が載っていた。

 同感。言い方は良くないだろうけれど、なくなってしまった者たちに、食べ物飲み物を供えても、現実には この暑熱の中、それこそ 腐ったりにおったりして 不衛生極まりなくなるはずだ。 その管理をする人も いるのだろうけれど、そうまでするのなら。。

 だったら なんで?! なんで その前に、そうなる前に、それを しなかったのか。

 結局は だれでもが 面倒に巻き込まれたくないし、おかしなことになって 嫌なことを背負い込むようになりたくないし、・・つまり、下村容疑者と一緒。

 自分のことしか考えない。自分さえ良ければいいんで、それを邪魔するものは 排除するという、そういうことをしているのだ という 自覚が 余りになさ過ぎる。

 当方、なにかのときには 通報するのだが、そのいちいちに名前の住所の年齢の・・と 聞かれてファイル化されるというのは、やはり 気持ちの良いものではない・・ので、そういうことが わずらわしい、嫌だ と思う向きも分らなくもない。

 だけど、そんなことを 逡巡しているうちに、人が死んでしまったり、酷い目にあって 悲惨なことになったりしたら・・と、そう 思えないのかな と 思う。

 間違っていたって いいじゃないか、あまりに 泣くんだもの、気になるし 心配だけど、普段の付き合いが無くて どうしたの?と 声を掛けにくいので、すいませんが 調べてもらってもいいでしょうか?と 警察に連絡するのが 何故 やりにくいんだろうか・・ 

 自分だって 正直 いやだけど、だけど 嫌だと思っていて やらなくても何とかなることと、そんなことをいっていたら 取り返しのつかないことになるかもしれない場合 というのが あるのだ。

 ひょっとして 恥をかくかもしれなかったり、心配性も程ほどに と 言われたとしても、でも やっぱり ちゃんと 報せるべきだろう・・

 自分のことを 説明できない子供であれば あるほど、おせっかいが あっていいときってのが あるはずだ。

 もしかしたら、先に下の子が亡くなって行ったかもしれない。その時の 残った上の子は、どんな思いをしただろう・・。 きっと ものすごく 恐かっただろう と。
 生まれて数年で 絶望を知っただろう と・・たった一人で、変化して行く弟を、、 
一体、 どんな思いで 見つめていたんだろう・・

 あまりに残酷だ。 あまりにむごすぎる。 

 今は、ただ、子供たちの永遠の平安にあることを信じて 合掌。

 

 

 

2  8月6日

 広島も、長崎も・・、年に一度、その時だけのイベントになりつつあるけれど、本当は そうじゃなくて、いつも 毎日、普通の日々において、何かの時には 思い起こさなくてはならないこと、つまり 忘れてはならないことなのだ、ということを、多分 我々は 余り良く分っていないし、思っていない。

 せめてその時だけでも ・・になったって、それは 仕方の無いことなんだろうけれど、それでも、やっぱり あまりに 今の我々には その時のこと、その時を含めた「この国に戦争があった」ことの知識が なさ過ぎる。

 とても 勇気がいる。恐いことだし、もしかして、今 そうなったら、もし それが 自分の身の上に起こったことだったら・・と 想像するのは、すごく 辛いし 嫌なことだ。
 
  だから 知りたくない、そんなこと 知ってもしょうがない と 思うかもしれない。多少は 分らなくも無いけれど、でも そんなことを言っていたら、だれも それを記憶する人が、話す人がいなくなったら・・

 ある時、なんで こんなことになったんだろう?と 思うようなことが 次から次へと起こって、ふと気が付いたら 取り返しのつかない恐ろしいことの中に 巻き込まれていることだって あるかもしれないのだ。

 知らなければ、回避できない。知らなければ どういうものかの判断もつかない。知らなかったために、守れたはずのものを守れないかもしれない。

 知っていても どうにもならないことも 沢山あるし、知ったところで 結局 大きな渦は どんどん 狼狽するばかりの人々を巻き込んでいくのだろうけれど・・、それでも 人として、知っていれば 回避できたかもしれないことが きっと あるはずだ。

 歴史を学ぶのは、未来のためで、単に知識を得るためではない。過去から学ぶものは 沢山、たくさん ある。

 遅まきながら 私達は、今から 65年前に起こった「この国に起こった戦争」について、学ばなくてはならない。

 

 

3  8月15日と母

 昨日は 8月の15日だった。

 自分は、まったく戦争を知らないで育ってきたが、両親は 戦前戦中を体験してきて、よく知っている世代だ。

 両親は でも、積極的に そういう話をしようとしていたようなことは なかったように記憶している。

 ただ、まだ 小学校の低学年のときだったときのある夏の夜、風呂上りの父親の背中の傷をみて なんで怪我したのかとたずねたら、原爆の時にやられたといわれ、すこしだけ 原爆とはどんなもので、それが爆発して どんなことがあったのか ということを 話されて、ひどく 恐ろしい思いになって 黙ってしまったことがあって、母が「やめなさい。寝る前にそんな話し。」と いって、布団に連れて行かれたことがあったことを 覚えている。

 人一倍 言葉やイメージに影響されやすい自分だったので、話を聞いたあと しばらくは、ずっと その話を聞いていたときの自分の勝手なイメージから どうしても 逃れられなくなり、恐い夢を見たり、どんどん絶望的な想像が先走ったりして、なんでもないのに、やたら 心臓がどきどきしたり、人と話すのが恐くなったり・・などしたことがあった。

 だから、そんな暗いイメージ、怖くて恐ろしくて絶望に向かうばかりのイメージなど、ほんっとうに 思うだけでも 絶対に いやだったこともあって、中学生くらいになってからは、戦争の話になると 当然のように 拒否反応が出て、聞きたくない、とか もう いいよ、とか あるいは 何も言わずに 黙ってその場をたったりしていた。

 そんな風だから、もともと それほど 親しくない上に、話し方があまりうまくなかった父親からの話は、かなり ぶつぎれというか、まとまりのない話の記憶でしか ない。

 一方 母は あまり 戦争の前後やその最中について話すことは もともと無かった。

 それでも ちょっとしたきっかけで、唐突に 戦争中などの話をすることもあった。

 1945年の8月15日を 母は満州で迎えたそうだが、終戦の知らせを聞きはしたものの、玉音放送については、その日の夕方に 人から伝えられて知ったくらいで、だから 内容もなにも 全然しらなかった ということだった。

 そこから、どのくらいの期間を経て、どういう経路で日本に戻ってきたのかなどは 聞いても 話してくれることは無かったのだが、これまでに 数回、佐世保の港でのことを 聞いている。

 母は、彼女の母親―遠藤にとっての祖母―と一緒に、船で佐世保に着き、大きな船だったから 船は港には入らず、乗船者は 一人ずつ、縄梯子のようなもの(なのかどうかは分らないけれど、とにかく階段状のものではなかったようだ。)を おりて、小船に移ってから、港に上がったのだそうだ。

 その時、娘だった母は もんぺをはいていたのだが、祖母は 着物だったそうで・・
着物は 今は、洋服を着るときの下着をつけて着用することが普通だが、本来 着物の場合、下着というのは 巻くもののみなので、その時の祖母も そうだったわけだ。

 小船のほうには 船員などがいて、降りてくる人たちを 介助するのだが、それは とりもなおさず、上から降りてくる人の真下にいることになるわけで・・

 だから、祖母は なかなか 降りられず、いよいよ 降りなくてはならなくなったときは、小船に乗り移った後も、陸に上がったときも 一言も口を利かず、だまって ずっと怒っているような顔をしていた と 母は言っていた。

 

 佐世保では 引き上げ者たちのために、すぐに 食事がだされたそうだが、「その時のご飯が、ひじきご飯だったのよね。だけど ひじきがちゃんと洗ってなくて 砂でじゃりじゃりしてて、とってもじゃないけど たべられなかったわ。おいしくなかったし、すごく 嫌だった。」と 本当に 嫌そうな顔で 話したものだった。

 そのせいだろう、母は ひじきご飯を 本当に 長いこと 食べなかった。大体 ひじきご飯というものが あるというのを 遠藤は大人になってから 知ったくらい、家では そんなご飯は 一度も存在したことが無かった。それくらい 母は嫌っていたというわけだ。

 数年前から、母の記憶が曖昧になったり、日常を 自分ひとりでこなせなくなったある時、ひじきご飯をつくって 夕食に出したことがあったが、その時は 何もいわずに 当たり前のようにたべていた。

 食事中に あ そういえば おばあちゃん、ひじきご飯きらいだったんだっけ とおもい、母に「ご飯 食べられるの?」と 聞いたら、おいしいわ という返事があった・・

 忘れるとか分らなくなるとかいうことは、ある意味 いいことなのかも知れないなと その時思ったものだった。

 母は 毎年 父が テレビの前にかじりついて 戦争の特集番組を 昼夜に違わず見ていたのを、ひどく 嫌がった時期が かなり長いことあった。

 『その時のこと』
を思い出して 嫌だ というのだが、何のどんなことをおもいだして 嫌なのか というのは、実は 殆ど聞いたことがない。

 きいても 話さないのだ。話したがらないというか、聞くと 機嫌が悪くなったり、声を荒げたりするので、こっちからも ことさら聞かないようにしてしまっていた。

 戦争の話しは 聞かなくてはならないと思う。聞いておかなくては と 思うのだ。
だが、母のように 話したがらないというのも あるのだ。

 まったく 別の話だが、自分自身が経験してきた あまりに辛かったことというのは やはり 話せば 思い起こされるし その時の感情や思いを もう一度なぞって経験してしまうようなところがある。
  だから とてもじゃないけど 人になど話せない ということがあるのだということは分るので、たまに 人から「今のうちに 話を聞いておきなさい」「一度は ちゃんと 話していただいたほうがいいわ」などと 言われるのだが・・、言いたくないものを 問いただして聞き出すのも どうなのだろうか・・と、自分などは思ってしまうのだ。

 伝えたい 伝えなくては という思いがない限りは、なかなか そういう気持ちになれないのだろうと、なんとなく 諦めたような気分で 思ったりもしている・・。

 もう、何を聞いても 時間が入り乱れている母の話しは、昨日のことも 50年前のことも 同じ出来事になっているし、そこにいる人たちも その時々によって 入れ替わる。

 遠藤が 若いころ聞いた母の話を こうだったんだよね と たずねても、そう?いつのこと?しらないわ といったり、そんなこと 言ったこと一度もないといったり・・

 だから 昨日、玉音放送のことを テレビで放送しているときに、先の話し―終戦の知らせを聞きはしたものの、玉音放送があったということは その日の夕方に 人から伝えられてしったのであって、だから 内容もなにも 全然しらなかった―という話しがでたのは、ちょっと驚いた。

 なにかのときに 唐突に 話し出すのかもしれない。
ただ 話すことで その時に戻って もう一度 その体験を身近に感じるようなことがあるなら、個人的には 忘れちまったほうが・・ なんて 思ったりもしている。

 人の話を聞くことは、とくに できることなら 知らないで済ませたい戦争のような話しは、現在とこれからに、すごく 重要かつ大切なことで、できるだけ聞くべきだというのは すごく良く分るのだが、

 本当なら、戦うとか 利害のために殺しあうとか、そういうことを 思いつかないように、考えつかないようであればいいんだよね と 愚かしくも単純に思う。

 やってみて 酷い目にあわなければ わからないなんて、我々は ずいぶんな愚鈍さの、情けなくも 惨めな生き物なんだな ・・と 「人」を 悲しく思った今年の8月15日でもあった。

 

4 お話のページ

 このホームページには お話のページがあるのですが、ものすごく ランダムに 思い出した順に かいているので、まったく 計画性というものがありません。

 さっき、やらなくちゃいけないことがある というのに、つい お話のページを開いてしまい・・ まぁ 案の定 つぎつぎと これいいな・・とか あ この話し好き なんて思いながら、読んでいました。

 自分で選んで 自分で書いているので、つまり やっぱり 自分の好きな話ばかりなわけで、だから どれを、いつ読んでも 面白いと 思ってしまうのですよね・・

 子供の頃に読んだ話なので、ちゃんと全部を覚えているわけではないのだけれど、例えば 一枚の挿絵、読んだときの気分、読んでいたときの回りの雰囲気、お話から想像したイメージ、あるいは 主人公の容姿のイメージとか名前とか、出来事や 展開などなど・・、その話の中で 強く記憶に残っている部分などが、日常のなにかをきっかけにして、長いこと 思い出しもしなかった話が 突然 思い出され・・、そうなると かいてみたくてたまらなくなったりするのですよね。

 あるいは 子供たちや タコ氏に、この話し 知ってる?と 記憶していることを話してみたりして、すこしずつ 細かいことも思い出してくると、あ かいてみようかな なんて・・、そんな流れで コレまで・・ 104のお話を 書いていたことが さっき 分りました。

 その104の話の中には、だいたい誰でもが知っているような話もあれば、すこし思うところがあって 自分で作ってしまったお話もあります。

 知っている話でも、自分が読んで面白いとか このほうがいいな と思うようなかき方をしていますので、(まぁ これには著作権というもののことも 考えたりして、あまりに きっちり書いてしまうのは どうなのかな なんて 思ったりもしてのことなのですが・・)原作とは 大きくというほどではないけれど、どこか違っているものが 殆どです。

 お話というのは たとえば 親が子供に話すときも 絵本や本などを読んで話して聞かせるというのと、ただ お話 として 親の憶えているように 話すというのがあると思います。

 遠藤のかいているのは その 後のほうのやり方ですね。
ほんとに そのお話をちゃんと知りたかったら 本を読めばいいことです、だから それを あえて こんなところで 改めて かいておかなくても いいな と 思っているので、それで お話のページでの お話たちは すべて 遠藤の記憶のまま、子供たちに 話したように 書いたものばかりです。

 

 お話は お話で、まったく 現実的でないものの方が多いですし、だけど それなのに まったく 現実から遊離しているということも なくて・・、なんだか とても 面白いところに 位置しているような気がしています。

 そりゃあ、魔法が使えたり、雲の上の世界にいったり、地面にもぐったり、人間以外のものとの行き来が自由に出来たり、時には 家族としていっしょにくらしたり。。なんてのは、もちろん 現実には 無いんですけれど、だけど お話を読んでいると そういうことって なんだか すぐ隣では ちゃんと そういう風な日常があるような気がして、やっぱり お話の影響って(自分には、ではありますが)結構 大きいな・・ なんて 思ってもいます。

 

 自分で作ったお話を かくときというのは、ちょっと 不思議な感じがしていて、その出来事やその人とのことについて、一度 さら〜っと 思い出す程度で いきなり書き始めますが、そうしていくうちに、どんどん その人とのことが思い出されて、忘れていた出来事やその人の言葉、しぐさなどが、わーっと それこそ 映像を見るように 思い出されるのですよね。

 で、自分は それを見ながら(・・というのかどうか) そのままをかいていくのです。

 これは なんだか 不思議な感覚で、だけど かいているのは自分ですから、書きながら やっぱりその人の事 思ってるわけで。。 そうすると その人を とても身近に感じるのですよね。

 書き終って、読み返しながら 誤字脱字 その他諸々のチェックなどしているうちに、その人の存在感は 消えてしまっています・・

 たとえば、 バレンタインメモリー しめちゃんのこと 『愛してみよう』 友人くんと鯉 神様の子 真夏の坂道 などは、自分が出会った人や 直接見たこと、それから 直接話してもらったことが きっかけで 出来上がったお話で、以前働いていたところで出会ったお客さんたちのことや、親しくお付き合いさせていただいていたご近所の方とか、買い物途中で出会った出来事とか、静かに身近でお話していただいたこと、ずっと前に夢か現か・・、だけど やっぱり そうだったんじゃないか というようなことを 書きました。

 すっかり 丸々 自分の想像で書いたお話としては、私たちのアデルおばさん 希望の朝 くじらの波留さん ぷにすけどんの誕生日 などがあります。

 子供の頃に読んだ話で、深く印象に残っているのが、夢のこども、それほどの強さで記憶されているわけではないけれど、なんとなく その時季に思い出されるのが 虹と月見草 私の浴衣 などがあって、とくに 夢のこども については、なぜか 毎年 夏になると思い出されるのです・・

 そのほかのお話も 結局は 自分が好きなものしか書いていませんので、何度繰り返して 読んでみても、やっぱり 面白いし たのしいし・・というものばかりです。

 

 遠藤は 子供の頃、そうですね・・ 物心付いた頃から といえるでしょうね、ほんとに 人と付き合うのが下手というか 不得意、苦手で、相手が 何を思っているのか まーったく分らないので、相手の言動にいちいち びくついたり、ぽかんとしたりしていました。

 ・・で ちいさかったんですけれどね、だけど やっぱり 大人並みにくたびれるんです、人と付き合うと。

 それで、すごく めんどくさい とか、いやだ というような気持ちになって、結局 早くから なぜか 字を読めたので、勢い 家の中の本を 読み始めたわけです。

 最初の頃は、子供向けの本なんて そんなに冊数が無かったのですが、あまりに 本を読むから ということで、母が子供向けの文学全集を買ったのですね。

 さあ そしたら、それが おもしろくてしょうがないわけです。幼稚園や学校から戻ってくると すぐに 本を広げて かたっぱしから読んでいきました。

 まだ 目も悪くない頃ですから、薄暗くなっても 本棚の前にへばりついて、読みふけるのが 自分の毎日でした。

 その頃から もう半世紀以上も経っているというのに、その頃読んだものって 思い出すんですよね。。 すごいなーって 思います。

 そして 当然ですが、子供の頃の感じ方とは 違った感覚で、そういう なじみのお話を思い出したり 読んだり、書いてみたりしたのが、お話のページではあります。

 正直に言うと、このホームページの中では 一番気に入ってる、やりやすい 自分にとっては 作るに楽なページではありますが、これから どこまで 増えていくやら、なんにも 考えていないまま、できるところまで お話を 書いておこう と 思います。

 ちなみに 今月のお話は・・ 王様の耳は ロバの耳 ですよ。
 

 

 

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