9月のお話  最後の真珠

 


、あるところに たいそうなお金持ちの家族が 大きなお屋敷に住んできました。

 その日、その家では 皆が とても 嬉しそうな顔をして、ニコニコしていたのですが、それは その家の奥様が 初めての可愛い綺麗なあかちゃんを産んだからでした。

 すやすや眠る赤ちゃんの ふかふかの絹の布団をかけなおす この家の主人であるお父さんも、とても 幸せな顔をしていました。

 お父さんは、絹の布団をかけなおした後、赤ちゃんの小さなベッドを覆っている、真珠を通して編んだレースの掛け物も きれいにかけなおしました。

 それは、親切な妖精達が 赤ちゃんのお祝いにと持ってきた 幸福の贈り物というもので、掛け物についている真珠には ひとつひとつに 赤ちゃんのための願いが 込められていました。

 そのそれぞれの真珠には 健康や十分な食事、楽しい時間や良い友達、笑顔ややさしい心などなど、人が 幸せに暮らしていくために必要な良いものが 殆ど揃っていました。

 さて、この家には 一人の 家神様がいたのですが、その家の神様も、すやすや眠る赤ちゃんと奥様の顔を見ながら、やはり にこにこしていました。

 そして、真珠のレースの掛け物を 手にとって、ひとつひとつを 笑顔で見つめていました・・が、ふと 手を止めると そばにいた 子供を守る神様に 言いました。

 「真珠は コレで全部か?足りないような・・」
「はい、まだ 妖精の一人が 来ていません。ですから 最後の真珠が足りないのです。」

 「それはいかん。この子の幸福に不足があってはならないというのに、なんということだ。わかった、今すぐ その妖精にあって 最後の真珠をもらってこよう。」
 「いえいえ、家神様。大丈夫ですよ。しばらくすれば ちゃんと 真珠を持ってやってきますよ。」

 しかし、家神様は 気が急いてなりません。
仕方なく 子守の神は 家神様をつれて 最後の真珠を持ってくるはずの妖精のところへ 出かけました。

 道々、子守の神は 最後の妖精について 家神様に話をしました。

 「最後の妖精は いつも決まったところにいるわけではないのです。王様のところにも、たべるものもない貧しい家にも、子供のある家にも 子供のない家にも、誰のどんなところにも 必ず 最後の贈り物を持っていくので、いつも同じところにいるわけには行かないのです。
 そうそう、今日は たしか このあたりに・・。 ああ いたいた。」

 子守の神が 家神様を連れて行ったのは、町のはずれの一軒の家でした。そして 二人の神様が その家に入っていくと 家の中は しんとして 誰もいないかのように 思えるほど 静かで、そして なんとなく 暗く寂しい感じが漂っていました。

 ふと、人声が聞こえ、その声の漏れた 大きな部屋に入っていくと、そこには その家の家族である お父さんと子供達が 一つのベッドを囲んで 泣いていました。

 たった今、この家のお母さんが 病気で死んでしまったのです。

 まだ 小さい末っ子は 何がどうしたのかも分らずに、皆が泣いているのを お父さんに抱かれて 不安そうに 見ています。

 子供たちは その愛らしい頬に 透き通った涙を流して 悲しんでいましたし、お父さんも 余りの悲しさに、子供たちの前にもかかわらず、涙に暮れていました。

 「気の毒なことだ。さぞかし 悲しいことだろうに・・。わしも 祈ろう。」

 家神様は そういって 静かに頭をたれました。
そして ゆっくりと 顔を上げると 子守の神に そうっと言いました。

 「しかし・・、ここには 最後の妖精は いないようだな。」
「いえいえ、家神様。ほら あちらに・・」

 子守の神が指差した部屋の片隅には、まだ 元気だった頃の お母さんが 子供たちを抱いて 歌を歌ったり、お話を聞かせたりするときに すわっていた 椅子があって、二人の神様達が じっと見ていると、そこに、一人の 長いドレスの女の人が 悲しそうな顔をして 座っているのが 見えてきました。

 「あれが、最後の妖精、悲しみの妖精です。」

 家神様が じっと妖精を見ていると、ふと 悲しみの妖精の目から ぽろりと 一滴の涙が零れ落ちました。

 妖精の涙は 見ている間に 月の光のように輝いて 妖精の手の平のうえで、虹色の真珠となりました。

 子守の神は 静かに 悲しみの妖精の手の平から その真珠を受け取って、そっと 家神様に渡しました。

 「これは 悲しみの真珠です。これで あの子のもつべき贈り物は 全部揃ったわけです。
 人は、悲しみを知ることで、本当の幸福が分るようになり、人も自分も大切にして やさしくすることができるようになるのですから。」

 家神様は 手の上の真珠を そっと握り締めると、子守の神と並んで あの赤ちゃんの眠る家を 目指しました。

 「悲しみを知る真珠か・・。この最後の真珠がそろって これで すべてのあの子の幸福が訪れるわけだ。」

 その夜、何も知らずに 眠る 小さな赤ん坊の真珠のレースの掛け物に、最後の真珠が 編みこまれました。


 このお話は ご存知の方 いらっしゃるでしょうね。 アンデルセンの童話ですね。

 悲しみの真珠を加えて それで すべての幸福が訪れる というのは、ちょっと 意外な感じがしますが、でも、おそらく そのとおりなんだろうと思います。

 痛みを知るものしか 苦しさや辛さ、切なさや悲しさなどを わかりあうことはないのでしょう。
 人の想像力なんて ほんとに ちっぽけなものですし、人と人とは どんなに愛し合って深く分かり合っているように思っていても、やっぱり 最後は どんな人も 独りなものです。

 だから 精一杯 思いやるのは とても 大事なことだと思いますが、それでも やはり 経験の有無で、悲しみへの寄り添い方が 変ってくるのは 否めません。

 長く生きるというのは そういう経験を 嫌でも積むようなところがありますし、辛い経験でもある その悲しみや苦しみを糧にするということの中には、同じような辛さや悲しみにある人たちへの 相応しい慰めや寄り添い方をすることが出来るようになる というようなことも あるように思います。

 しかし、おもうに、このお話は 大人が大人のために書いたお話のような気がします。
だからといって、子供には 分らないわけではないでしょう。

 ケストナーの言うように、子供の涙は 大人の涙より 軽いということは ないと思いますし、人々や社会から 見捨てられたまま その短い生涯を終えなくてはならない子供たちだって、この現代にも 幾らも います。

 そんな子供たちなら、悲しみの真珠をもつまでもなく、生きながらえれば 日々の喜びを ほんの少しのことからも得て、幸福な笑顔でいることができるようになるでしょう。

 悲しみや苦しみを知って 比較するから 無事なことを 喜べるのだという、そういうことも 言えなくはありませんが、もうちょっと先をみて、艱難を経て、人を思いやるようになるという、やぱり 人の小ささにあわせた 世の営みを このお話からも 思ったりもしました。

 人は 悲しい生き物です。 だから、幸いに生きることも可能なのだと思います。

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