今、桜を見て来ました。
冷たい横殴りの雨にも負けずにいる 七分咲きの桜達。
濡れて さらに無骨な黒く太い幹に なぜ、こんなに可憐な花が咲くのでしょう。
それぞれの 花びらの先から滴り落ちる雫の なんと甘やかにしてセクシーなこと...。
それなのに、好きな子を わざとからかうような風にあおられながら、怒りに上気した顔をうつむかせて そんな意地悪をやり過ごす少女のように 桜は黙って揺れていました。
ついさっきわたしは、どうにも抗しがたい衝動に駆られて、雨の中を歩き回って来たのですが、そんな桜と風のやりとりを ほほえましくも多少いらいらした思いで眺めていました。
こういう季節は 駄目なんです、私は。
日ごとに咲き誇る桜を追いながら、一日10分でも 表に出てしまうのです。 多分満開の桜が 夢のように散りふぶくころなどは、とてもじゃないけれど こんなところ(?)でおとなしく仕事など できないでしょう。
なにをこんなに浮かれているのか...?!
例えば、樹の花の下を歩いていて、たまたま偶然 自分に向かってそのひとひらでも舞降りて来ようものなら、まるで 長いこと待っていた一言を耳にしたときのように 心臓がドキドキしてしまうのです。
それほどに樹の花はわたしには特別なものなのです。
樹に盛大に花が咲く...、楚々とするのもいい、美々しくあでやかなのもいい、誇示し狂ったように咲き乱れるその勢いは、年ごとに繰り返されて あまりにも当たり前の事象にもかかわらず、今その時、例え嵐の最中にあって そのまま散ってしまったとしても、そこに確かな存在として 息しているというその事実が、わたしにとっては 震えがくるほど明快な「生」の目に見える実感なのです。
そして、幾つかある そうした「生」を実感できる出来事に出会う時期になると、子供の頃からわたしは、本当に落ち着かなくて、教室で授業を聞いたり、いすに座っていることも難しく、実際 両手をお尻の下に敷いて、体の重みで自分のはじけて飛んで行きそうな思いを 耐えなければならなかったのです。
高校の時、桜のころの天気のよい日など、学校近くの外人墓地から見える桜と富士山の あまりにもありきたりのシチュエーションでさえも たまらなくきれいに思えて、結局 学校など忘れて元町公園で半日桜を眺めたり、学校に行っても 音楽室や美術準備室からの山手の桜の優しくかすむ様を、弁当持参で 日がな一日楽しんでいたものでした。
それなのに、わたしがそういう者だということをご存じでいらしたのか、担任のシスターが 「どこへ行っていらしたの?」とお聞きになり「桜を見ていました。」 と答えると、「きれいでしたか?」 「はい、泣きたくなるほど。」 と言う会話をしたきり、なぜだか 何のおとがめもなかったのは、もしかしたら、再びの命の勢いに抗えず、気の済むまで付き合ったわたしへの、桜の計らいだったのかもしれません。
与えられた場所にたたずみ そこに生きる桜、その存在の証し「香り」を知らせて回る風、樹の下を通る人達の今が、確かな「生」であるように...祈ります。
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