そろそろと昇り始めた太陽の光を、薄いカーテンが遮ろうとするかのような朝もやの中、滑らかに静まった鋼色(はがねいろ)の海の上に 幽玄のごとく浮かび上がる 青灰色を帯びた仄白い富士は、稜線をなだらかにして曖昧な姿にもかかわらず、影のように続く丹沢の山並みを従えて 孤高にしてひたすら、切ないほどに 美しい。
私が 自分を幸せだと思う幾つかのシーンのひとつに、こうした風景を見るときに感じる自分の心持ちがあります。今書いたばかりの 先の富士の様子など それこそ幾度と無く見ている風景なのに なぜ 毎回同じ物を見て飽くことなく 感嘆できるのか、自分でもおかしなくらいなのですが、どうも 私という人間はお手軽に出来ているようで そんな風になににでもいちいち感動するようです。
好きなもの―海と空、空気と風、光と影、木々や花々、季節の移ろい、水の流れ、雨、雪、稲妻に花の香り、生きるもののエネルギー、優しい歌と時を越えた音楽、息遣い、その人を語るまなざし、夢を見る力、追い求める勇気、命のある言葉、慈しもうとする心遣い、降り注ぐ光の中の静寂、体温、幸せであろうとするための努力、人のための祈り、静も動もあるあらゆる自然と人間の人間であろうとするための営み、・・・そして 愛されている幸いを感じて それゆえに豊かさを得、さらに与えられた時々に愛することの出来る時。(例えば、いま このとき。)
なんとなく バラバラに書いたのですが、私の中ではきっと 当然の経路をたどって書き出した諸々のように思えます。なにを見、何をしても、どう感じても、結局 自分が深く愛されて存在していることの感謝にしか、行き着かない。
50年も生きていれば、嫌というほど見聞きしたくないこと、二度と経験したくないことなど いくらでもあるもので、そのために 自分の人生を放棄してしまう事だって 私たちの周りには始終起こっている、それは なにも特別なことではなく、実に 過去の私だって考え無くもなかったことなのですが、それなのにどうして、こう めでたいほどに なににでも毎回感じ入るのかと思うほどの自分の心の簡単さを 私は 今更のように "ありがたいこと"と 思っています。
人に会う事もそう。同じ人に会う、でも 毎回初めてあった人のように 何かその人についての発見がある。それはとてもうれしい出来事です。だから より多くの出会いを恵まれた私は、出来るだけ良い存在であるよう努めますから、どうぞ 私で間に合うことなら あなたに使って欲しいと 願っていることを憶えていて下さい。そして 何かの時には 私がいることを 是非 思い出してください。
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