あけまして おめでとうございます。

今年一年のあなたの毎日が 

自由で幸福な思いに満ちた思いやり深い時の

連なりとなりますように・・!

 

1月のお話  「金の糸と虹」


 いつからか 森の入り口の 大きな木の下で、男が イスに腰掛けて 静かに本を読んでいる姿を 見かけるようになりました。
  そばの木の枝には 「なんでも つくろいます」 と書いた小さな看板が かかっていました。

 ためしに あるとき 村人の一人が 破れた傘を修理に出したところ、たしかに 敗れたところを指差して その男に頼んだのに、出来上がった傘は つくろった跡など 少しもみあたらず、まるで 新しいもののようになってもどってきました。

 村人が「これは 大変なお金を取られるだろう。」とおもって、恐る恐る代金を聞いたところ、男の言う代金は 驚くほど安く、村人はびっくりしてしまいました。
 
 その村の人たちは たいそう貧しくて 新しいものを買うことなど なかなか できなかったので、そのうわさは 村中に、そして 近くの村にも広がっていきました。

  それからは 毎日、森の入り口の 大きな木の下で本を読んでいるその男のそばには、気がつくと たくさんのやぶれて履けなくなった靴や山や畑での仕事の時に裂けてしまった上着、もう擦り切れて布地も薄くなった着物やぼろぼろになった背負子などが 山のように積まれていました。

 いつも男は 昼をすぎる頃になると そのたくさんの繕い物を持って 森の奥へ入っていきました。

 森の中は 何本もの大木が重なり合って 真昼だというのに薄暗く、場所によっては 殆ど 夜のようなところさえありました。ただ、そのところどころに、木々の枝のすきまを通って、暗い天から真っ黒な地面に向かって 金色のまぶしい細い光りがまっすぐに、しずかに さしこんでいました。

 男は そのうちの一番細い光のそばにイスを置くと、胸のポケットから 小さな虹色の針を取り出し、目を細めて そっと光りのすじをすくいとりました。
 たちまち その針には、キラキラと輝く とてもきれいな糸が通っていました。

 それから 男は 黙って 村人達から預かったたくさんの繕い物を せっせと その針と糸を使って 修理し始めました。

 次の日になると 男は すっかり修理された預かりものを全部もって、森の入り口にやってきました。 村人達は 前よりももっとたくさんの繕い物を持って 待っていました。

 たしかに 男の言う代金はとても安かったのですが、それでも 本当に貧しい村人には それも払いきれない時もありました。

  そういう時男は 「お代は これで結構です。心配しないで下さい。」と もってきたお金だけを 受け取りました。

  何人かの 村人達は お金は払えないけれど、といって 自分のところで取れたものなども 持ってきたりするようになりました。

 そのうち 村の人々の間では あの男に直してもらったものを 身につけると、なんだか 心が軽くなって楽しくなる、といううわさが立ち始めました。

 確かに 言われてみると つくろってもらったものを 持ったり、使ったり、着たりすると その日一日が なんとなく うきうきと過ごせることが 誰にも分かってきました。

 男のもとには 今まで以上に たくさんの繕い物が 持ってこられるようになりました。

 その日も 男はいっぱいの繕い物を持って 森の入り口にやってきましたが、みんなにそれを渡しながら「きょうは お返しに来ただけです。」といい、全部を返し終わると 何も預からずに 森の奥にきえていきました。

 それから 何日たっても あの男は現われませんでした。

 村人達は あの男のことを いつまでも忘れずに、男のつくろってくれたものを身に付けるたびに 懐かしがって口にしあいました。

 あるとき 村に ものすごい土砂降りの雨が降りました。それこそ 天が破けたかと思うほどの ひどい降りでしたが、そんな雨が 降ってきたと同じように、いきなりやんだものですから、人々は ぞろぞろと表に出てきて 空を見上げました。

 すると きれいに さっぱりと洗いあがった青い空に、お日様の光を受けて キラキラ輝く大きな虹が 空イッパイに かかっていました。

 虹を見上げた村人達の 誰というともなしに、話は あの男のことになりました。
”あの男は きっと 虹になったに違いない。だって 虹を見ていると あの男の直してくれたものを身に付けたときのように たのしくなるんだもの・・。”


 それから人々は 虹を見るたびに あの男のことを思い出して、心楽しく 暮らしていったということです。


 

 

 このおはなしは ご存知でしたか?

 これは 「白い帽子の丘」という本の中の「金色の〜(?)」(すみません 確かな題名がわかりません)という 児童文学のジャンルのものなのですが、昭和26年に20歳代の若さで視力を失った 佐々木たづさん という女性が お書きになったお話です。

 私は このおはなしが大好きなのですが、大分前に読んだので 殆ど 内容的には 一応間違っていないとは思うのですが、例によって 細かいところは 脚色してあります。(佐々木さん、すみません。)

 中学か高校かの時に、本の整理をしていたところ、子供のころによく読んだこの本が現われて、ふたたび読み返し、もし 将来仕事をするようなことがあったら、この男のような仕事をしたい、と思ったものでした。
  まさか 日の光りを針に通して 繕い物をするということをできるとは 思いませんでしたが、それでも 自分のやったことが 何でもいい、だれかのしあわせになれば・・、と そのときから 密かに思ってはいました。

 なぜ それほどの記憶が無いのに ”昭和26年に〜”なんて 憶えているのかといいますと、その年は 私の生まれたとしだからなんですね。そして 最初に読んだときは 思わなかったのですが、半世紀も前に 優秀な若い女性が これからという時に 視力を失って、いったい どうして こんな夢のある、美しい話を書けたんだろう?と 今回 ここに書きながら 思ってしまいました。

 私もそうでしたが、何かが人と違うということは、当時の日本では 今よりももっと 大変な扱いを受けるのは必至でしたし、まして 五感の一部を失うわけです。今よりももっと 社会的な意味での不安は 大きかっただろうと思うのです。

 そうした中で なぜ こんなに柔らかなものを書くことができたのか・・、とても 知りたいと思いましたが、読み返したついでに読んだあとがきには 「佐々木さんの 深い信仰が これほどに優れた児童文学を書くに至らしめた。」というようなことを 武者小路実篤氏が 書いていたように記憶しています・・。

 そうならば なんと 信仰するということは 頼もしくも力強いものなのだろう!と 心から思ったものです。
 わたしなど この年になっても そんなこと 思いもよりませんし、もしかして 似たような状況にあったら おそらく 人は恨むは、世の中には毒づくはで、毎日荒れて大変なことになっていることでしょう。

 修繕上手な「あの男」は 一体 何者だったのでしょう?

 天からの使いなのか、虹の精なのか、やっぱり 人間業ではないですよね。だって 見返りもなく、する仕事言えば、単なる直し物ですよ。それを あんなすごいテクニック(?)で やってしまうんですもの、普通の人は しないんじゃない・・と 普通 思いますよね。

 でも 私は おそらく 誰でもが あるとき 「あの男」になりうるのではないか と、今回ここに書きながら 思っていました。
 
 自分のもっている力、そのほんの少々のものを、誰かのために 役立てる事ができたらば、きっと 受けた人も うれしいでしょうけれど、何よりも 行なった本人が 一番 心豊かになれるように 思うのです。

 あなたは どうおもいますか?

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