2005年6月 追記:魂の救い
遠藤風「パンを踏んだ娘」を ココに掲載してから3年経ちましたが、いまだに このお話についての反響が 時々 あります。
”結末の現世的救いの無さに どうにも 納得がいかず、(何で ハッピーエンドではないのだ・・?と 思うこと)”というくだりへの同意見=なんとか救いが欲しかった と言う内容の感想をいただくことがあります。
実は 私は 前回 ちょっとお茶を濁したようなことをしていまして・・その部分へのコメントについて、では・・ということで、特に調べはしていませんが、思い当たることを 書いてみようと思います。
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インゲルは、養父母が丹精こめて作ったパンを 自分の見栄を満たすために踏んで地獄に落ちました。
地獄に落ちたインゲルは、自分のしたことをひどく後悔して、こころから悪かったと反省します。そこへ届いた声は、彼女に 自分のしたことの償いが 彼女にもできることを告げます。
そして インゲルは、ぜひともそれを行いたいと願います。
自分のしたことの罪深さについて、心からの反省と後悔を持つことが出来る時、人は 生まれ変わっていきます。
彼女は 踏んだパンと同じだけの重さのパンくずを、自分は食べずにほかの鳥たちのために せっせと運ぶことを罪の償いとし それを果たします。
さて、問題は ここなんでしょう。
ちゃんと罪の償いをしたのに、どうして インゲルは 人間にもどれなかったんだろう・・?
それについては、あのお話が、キリスト教を心と日常の生活の基盤として生きてきた人たちの中から生まれた話であるということに気が付くとき、このあたりの硬い結び目が解けるような気がします。
「パンを踏んだ娘」をココに書くとき、私は ひとつ 大きなことをはしょってしまっています。もとの話には書いてあったのですが、それこそ描写がすごくて ちょっとかけないなぁ・・と思ったので、飛ばしてしまったところで、それは 実はインゲルの落とされた地獄についての場面なんですね。(機会があったらお読みください。)
この話をテレビで見たことがある という方たちにも、その場面は 先に書いたようなシンプルなものだったと思います、私もそのほうを利用しました。 でも・・
もとの話の中の地獄の描写は、ざっと書くとこんな風です。
暗闇の中、冷たく音もない広い場所で、インゲルは自分を見出します。しかし体は泥にまみれて醜く汚れ、おまけにそのために体は硬直して動かない。
でも 意識も五感もあって、目が慣れてくると、自分のほかにも 沢山の人間達が 自分と同じように 周りに固まった状態でいる。
皆 一様に 驚いたり、嘆いたり、絶望したり、悲嘆に暮れた表情をしている。インゲルは それが自分と同じように 罪を犯した者たちであることを知り、自分もその一人であることを理解する。
かつて美しく愛らしくおおきく輝いていた自分の見開いたままの目の中で、銀蝿が這うのを 手で払いのけることも、瞬きして追い出すことも出来ず、気持ち悪い、いやだ、助けて と叫ぶことも出来ずに その感触を感じながら 冷たくなっていくからだとともに、じっとしていなくてはならない・・。
何の音もしない、みんないるのに 誰もいない。
ただ ただ 暗くて冷たさが増すばかり・・ それが永遠に、終わりなくつづく・・
考えるとトラウマになりますから、そこそこにしてくださいね。
私たちのしっている地獄とは これまた随分違うものですね。
ダンテの神曲などにも 地獄の様子がかかれていますが、それはまた こんなものよりもっと なんともいえないものがあり、まだまだ 沢山の地獄のイメージというものが、はっきりとした形となって ヨーロッパなどの人々の中にあるというのは、私たちの日常には あまりないものだろうな と思います。
これは 逆を言えば、彼らの中には天国や神というものの存在を大変身近な現実的なものとして 意識する生活がある ということでもありましょう。
これを どんどん展開していくと 結局は 西の宗教と東の宗教の違いに関わっていくことになっていき、それはそれでまた興味深く 意義のあることではありますが、ここでは長くなるのでやりません。
もうひとつ、犯した罪に対しての意識の問題があります。
彼らの中にも 勿論色々な考え方の人たちがいますが、大体の傾向のひとつとして、悪いことをした場合、そのことを悔いることは良しとされるけれど、してしまったことは消えないというものなんですね。
これは 普通に考えれば あたりまえなのですが、今の日本では、これは例えばのはなしですが、子供が人を偶然にではなくて殺したとして、それはまったくの犯罪であるし、そんなことよりも何よりも 一人の人間の命を亡くしてしまったわけですから、それが正当防衛でない限り、どんな言い訳や理由もその事実を変えはしないのに・・、子供だから ということで、大人だった場合の罪には該当せずに、時間が経過すると ふたたび 何事もなく其れまでやってきたかのように 当たり前の顔をして社会に出、それなりに生活するということが行われてしまっています。
似たようなこと 同じことを かの国々ですれば、その刑務所での収監年数は およそありえない年数―100年単位―となったりして、事実上 決して生きては現社会には戻れないことになることもあります。
罪を赦すということを、犯してしまったことを忘れる ということにしない。
犯した罪について、後悔や反省をとてもよく行ったとしても、やってしまった事実は 決して消えはしない。そして 時間も過去には戻らない。 それを 日常レベルで分からせようとする。
これは 勿論 時や場所を超えて 今現在の私たちについても 言えることなのですが、そうした考え方が 恐らく当たり前に 私たちよりも はっきりとした意識が 彼らの日常にあるのでしょう。
犯した罪は赦されはしないが、罪を犯した魂は その罪を心から悔いることによって、そして 赦されるにふさわしい償いによって救われる ということですね。
平たく言えば―パンを踏んだ→いけないことだと分かったので反省した→相手に謝り、自分でパンをこしらえたり 買ったりしてその分のパンを返した→では これからは もうしないんだよ、はい・・―では すまないということで・・、
目に見える形では これでも良いように思えても、実際には、罪を犯したものの心―魂にはなんら変化はない。
謝った後にこそ、自分のしたことを理解していることをもって、罪を犯して穢れた自分の魂を救おうと努めなくてはならない。
そのあたり、日本にはない真剣な”厳しさ”を感じます。
それでも 深く後悔し、反省した結果、積極的に その罪を償おうとするなら、その心根において、そのものの思いは報われる(赦す)ということを キリスト教ではいっているように 私は思います。
人は 人ですから・・、誰でもが 間違いを犯します。
人様に あるいは社会に ひどいダメージを与えるようなことをせずに 最後まで生きられるなら、本当に幸いなことだと思いますが、人というものは 特別な事件などに合わなくても、だれでも ひとつやふたつの 決して人には言えない、どんな人にも言えないことを抱えて生きているものではないでしょうか・・
たかがパンを踏んだくらいで、と思うかもしれませんが、パンを人の労働の実り、汗と労苦の結晶、命をつなぐもの として考えればそれを足で踏みにじることは 人を足元に敷くにも等しい行為ですし、キリスト教(特にカトリック)においては、パンはキリストの体の象徴ですから、それを踏むなどということは、決してあってはならない 冒涜以外の何ものでもないわけです。
その行いに なんの同情や理解の示されるものでもありません。
そして ”インゲル”は お話の結果のようになりました。
しかし、それでも これは ひとつの救いにもなっているのでは、と遠藤がいいましたのは、上記のような理由からのことです。
この考え方が正しいかどうかは分かりませんし、知りません。
ただ、考えますとね。。私たちは あまりに 畏れを知らない人間になってしまっているのではないか・・、つまり 自分たちと同じ背丈の世界ばかりを重視し そればかりに価値を見出してきたばかりに、人そのものと人智を超えたもの、超自然的な力ある存在を見失ってしまい、まるで 子供社会のような世界―ぶったらぶちかえす、取ったら取り返す、いじめたらいじめ返すというレベル―の延長にある現社会になってしまったように思えてならないのです。
これを続けていると、際限なく人間の質が落ちていきます。
人の品位とか尊厳とかについて 考えられない人間が増えていきます。
そうやって 闘いや略奪、陵辱や非業の数々が行われるのです。
インゲルから大分飛びましたが、インゲルが人間に戻れなかったことを不服とする思いを、もう少し その先に向かわせて・・・、
人の注目を集め、大事にされて おもうままの生き方が出来ることをその目的としてきたインゲルが、誰の目にも止まらず 注意も引かず、決まった寝場所も持たない 小さな茶色の小鳥になって、罪の償いを果たすことによって得た幸い=罪の赦しは、インゲルの魂を永遠に続くおそろしい地獄から 輝く光の満ちる天に永遠に憩うことを許されたのだ ということをも、このお話は 伝えたくて書かれたようにおもわれるのです が・・
あなたは どうおもいますか?
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