8月のお話  五つのえんどう豆 

 


 

  あるところに 貧しい母と子がいました。

 子供は 10歳前後で もう 長い事 病気を患っていて いつも 窓辺のちいさなベッドで 寝ていました。
 母親は 何年か前に 主人をなくし、それ以来 あちこちの家の台所の手伝いや店の掃除、頼まれものの繕い物や 届け物を引き受けたり かいものをたのまれたりして その手間賃で 小さな部屋の家賃と 子供の薬代、そして わずかな食べ物を得て 暮らしていました。

 ただ 世の中全体が それほど豊かでないこともあって そうした細々した仕事は 大人よりも 手間賃の安い 子供のほうに回ることが多く 母親は なかなか そんな仕事にさえ ありつくことが出来ませんでした。

 子供は そんな母親が 毎日 決まった時間に出かけ、決まった頃に ほとほと疲れきって 帰ってくるのを見て 早く元気になって おかあさんの苦労を軽くしたい、自分も働いて 少しでも 生活が楽になるようにできれば・・・、と 病気であることを すまなくおもっていました。

 あるとき 母親は 何年も使い続けているため、こわれかけてゆがんでしまっている買い物篭に ちいさな包みを持って帰りました。母親は ニコニコしながら くしゃくしゃになったその包みを 子供に見せていいました。

 「ごらん。きょうはね あるお金持ちの奥様のお宅のお台所で 野菜の皮むきを手伝ったのさ。何か 大きな集まりがあるらしくて それはそれは 沢山の皮むきをやったよ。 おかげで、私の手はこんなにはれてしまったよ。でも、ほら、それで こんなに沢山の さやに入ったえんどう豆をもらうことが出来たのさ。」

 包みの中には こぼれんばかりのさやえんどうが つやつやと太って ひしめきあっていました。
 ふたりにとって 本当に 久し振りの沢山のやさいです。ほかには 何もありませんが きっと 二人のおなかはしばらくぶりに 満ちることでしょう。

 母親は 子供のために こんなに沢山の野菜を食べさせてやれることを喜び、子供は 母親の苦労が実って 疲れたお母さんといっしょに おいしい食事が出来ることを 喜びました。

 母親は 今日手伝ったお金持ちの家が どれほど立派で どれほどすばらしいかを 見てきたままに 子供に話して聞かせながら、さやえんどうの筋をとっていました。
 子供は おかあさんの話を聞き、その手元を見ながら 次々に ざるに入れられていく 緑の宝石のような 綺麗な粒を 嬉しそうに眺めていました。

 ふと 母親が 話の弾みで 大きく手を動かした時、ひとさやのえんどう豆が ぱんとはじけて そのまま 豆が 飛び散ってしまいました。親子は びっくりしましたが でも さやえんどうは まだまだ 沢山ありますし、その瞬間のことを思い出したら とても おかしくて 二人で大笑いしながら また 続きを始めました。

 その日の食事は ゆでたえんどう豆に塩を振ったものと 薄い豆のスープだけでしたけれど 二人は 本当に 久し振りに食事したように おいしく幸せに思ったものでした。

 さて あの時はじけて飛び散っていった豆たちは、その後 一体どうしたのでしょう・・・?

 実は、あのさやの中には 五つのえんどう豆が 入っていたのですが、それぞれ とても 自分たちのこれからに 大きな期待をかけていたのです。

 
  一つ目のえんどう豆は 自分は 大金持ちの家の すばらしい晩御飯に並べられて、人々が その緑の綺麗なことに 特別に注目されることを 夢見ていました。

  ところが そのえんどう豆は あのとき はじけ飛んで ちょうど 開けっ放しになっていた窓から ぴょーんと飛び出して 路地裏のわきを流れている 汚い排水溝に落ち込んで くさい水にどこまでも流されて 遠いところへ いってしまいました。  

 二つ目のえんどう豆は 自分は それほど高望みはしないけれど 普通の家の普通の食卓にのぼって それなりの食事として おいしくあじわってもらえればいいな・・と 思っていたのですが、ぽんとはじけとんだとたんに 窓のそばを通りかかった人の 買い物篭の中に飛び込んで、普通の家の台所に 連れていかれてしまいました。

 ところが たった一つぶのちいさな豆ですので その家の人は えんどう豆に気付かずに 豆はずっと 籠に入ったままで、とうとう 干からびて いくつかの荷物の下敷きになったときに 粉々になってしまいました。


 三つ目のえんどう豆は 自分は大切な存在だから、大きな畑の栄養のたっぷりある土の寝床に移されて、ゆくゆくは 沢山の子孫のための 種になれるはずだ と 信じていました。
 そして、はじけとんだその豆は コロコロと転がって 人の足に触れながら どこまでも旅をして とうとう 大きな農園の丁寧に耕された畑のところまで やってきました。

 しかし、すっかり 満足してほっとしたとたん、そこへ やってきたからすが、丸々太った おいしそうなえんどう豆を ちょんとついばみ、ぱくっと ひとのみしてしまいました。

 四つ目のえんどう豆は これという望みも無かったのですが、できるだけ ながくいきていたいと おもっていました。あのとき 皆と一緒にはじけ飛んだこの豆は、あの窓辺の隣の窓辺の 大きな鉢植えの中に すっ飛んでいったのです。

 ああ これはちょうどよかった、ここで ゆっくりこれからをいきていけるぞ と 豆は思っていたのですが、その鉢には 茨の苗が植わっていて どんどん根をはり、小枝を広げて増えていき とうとう 土の部分に 日の光りが届くことなど なかなか ないくらいに 生い茂ってしまいました。
  豆は ほんの少し 芽を出したっきりで 次第にやせ細り、いつか そこにある事もわからないくらいになってしまいました。

 
 さて、最後の五つ目のえんどう豆は 一体どうなったのでしょう・・・?

 最後の豆は 他のげんきで 良く太った豆たちに押されて、さやの中では すこし ちいさく そして あまり丸々とはしていませんでしたが、やはり この豆も あの時 皆と一緒にはじけ飛んでいきました。

 しかし それほど大きくなっていなかったので 跳ぶ力もよわく、結局 あの親子の窓辺の敷居の間にはさまれてしまったのでした。



 あの貧しくも おいしい食事をとった次の日の朝。子供は 窓の外を眺めようと 窓辺をに手をかけて、ふと 小さな緑色の粒に気がつきました。

 「おかあさん、みて!ほら 昨日のえんどう豆が 一粒 こんなところにいるよ。」 

 それを聞いて母親は 少しでも この子の慰めになるのなら・・と ちいさな茶碗に 土をいれ、えんどう豆を そのなかに 埋め込んでやりました。

 子供は それを大事にして、毎日 水をやり 日に当てては、アレコレ話し掛けて 豆が大きくなるのを楽しみにしていました。


  そのうち、あの小さな茶碗の中の豆は やっとのことで 芽を出し、わずかな日の光りを浴びながら、それでもすくすくと育つようになりました。

  母親は 何回か 入れ物を変えながら 子供の喜ぶのをみて、自分も 毎日 豆が成長していくのを見るのを楽しみにするようになりました。

 そして 豆は順調に成長し 蔓を伸ばしては ぐんぐん延びていき、可愛らしい花も咲かせ 二人を喜ばせ、そして ついには 幾つかのちいさなさやをつけてた後、その実を太らせ、再び あの親子の食事となったのでした。

 

 

 さて このおはなしは ご存知の方が多い事と思います。

でも おそらく これほどに 救いのないものだったかしら?と 疑問に思われる方も多いでしょう。
 はい、そうですね。毎度の事ながら 今回も 遠藤が 脚色しております。

 実は 殆どうろ覚えなのですね。 こんな感じの話だったな・・程度で 書いています。

 私は 子供たちが小さい頃、寝る前などには よく お話しをしたものですが、殆ど こんな風で 正統的な話というのは かなりわずかだったのではないか・・と 思います。そういうことを云々するよりも、毎晩続けて話し掛ける、そのことのほうが 大事だったんですね。

 日々は 忙しく、しなければならないことに絶えず追われている身としましては、いちいち 確かめて本を読み返すなどという 律儀なことは 一切後回しにしたものです。

 話は たびたび おかしな結果になったり、妙な結末になったり、無理やり 結論付けたり・・・と かなり強引な時もありましたが、おかげさまで? 子供達は それぞれ かなり 想像力たくましく、たまに 雨やあまりの寒さで家から出られないときなど、兄弟だけで 作り話のリレーをした事もあったのですが、子供ながらに それはそれは 面白くて たのしくて いつまでも続けられるのには、親の私でも 聞いていて 感心したものでした。

 ま それが わたしのこういうはなしかたの・・・とは 申しませんが、多少 そんなことのちなみにも なっているかな・・・などと 勝手に 思ってもいます。

 それはともかく・・・、
 今回のこのおはなしは、それぞれのお豆さんたちの 行く末のようなものについて 語られてはいます。こういう話を 運命論のように語る人もいるのですが、そんな暗い?話し方をしなくても 十分 話の内容はブラックで、あれあれ・・というまに 五つのうちの四つまでが 思いも寄らない結末を迎えます。

 というのは その小さな形から 芽を出し 花を咲かせ、実を結んで また 新しくなっていく・・・という そのありようから、命を語るときのたとえ話、あるいは 大切なことの象徴 として 語られることが多いのですが、それが いかに芽の出し方や花の咲かせ方、また そのものの置き所によって それぞれの成長に違いが出るかということを はなしてきかせるのに よく用いられるモチーフのですよね。

 ただ いつも おもしろいなーと 思うことは 子供向けにかなり擬人化されて 話が進行するわりには、結局は、例えば豆なら豆として 人に”おいしく食べてもらうこと”を その存在理由にしているところなんですね。そういうところに気がつくと なんだか ほんとに子供向けなんだろうか・・なんて 思ってしまうんですね。

 我が家にも 5人の子供達がいます。それぞれ もう殆どが成人して 子供のいるのもおりますが、確かに 同じさや(胎、家庭)から 飛び出したにもかかわらず どうしてこうもそれぞれが違うのか・・というほど 一人一人が別々の人生を歩んでいます。
 考え方や ものの捕らえ方、人とのかかわり方やこうやって生きていく という そのいちいちが 本当に やっぱり 人は個人なのだなぁ・・と 思わざるを得ないようになってきています。 
  だからこその「人」なのでしょうね。

 そして やはり 同じ所から飛び出して現在それぞれに生きているとしても その ねっこにある 生き方や考え方の基盤とでもいうものが、私が 恩師や大切に思っている方に教えていただいたことからの、常に言い続けてきた言葉や行為によるところが ふと 垣間見えたりすると、やはり 同じ命を頂いて 生きていくのだな・・と 本当に 心から 感じ入ること しきりです。 

 ちょっと 話が飛びましたが まぁ さやからすっ飛んでいったと お思いください。

良い実を 結びたいものですね。

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