その夜は ずいぶんと冷え込んで 友人とかなりの時間 飲み交わして 大分いい気持ちになった私は、人通りの途絶えた真冬の夜中に 雪の降りしきる道を踏みしめながら 自宅へと向かっていた。
いくらも行かないうちに 薄ぼんやりした街灯の明かりの中の雪だまりの中に 人影を認め、こんなに寒い雪の夜中に 一体 どんなヤツが 何をしようとしているのか・・ と 不審に思い、すこし遠巻きにして やり過ごそうとした。
ところが 私がそばを通り過ぎようとしたとき、その人影はゆらりと動き、その死んだ魚のようなうつろな目をこちらに向けながら、ゆっくりと手を差し伸べてきた。
「物乞いか・・。それにしても 汚いやつだ。」 そう思って 無難に通り過ぎるために、私は 外套のポケットを探ったが、どうしたことか 札入れがない。
男は、汚れてそのまま固まったような、なんとも 惨めな格好をし、寒さに震える剥き出しの手は 殆ど血の気のない色をし、そして 何か言いた気に凍りついたような口元は、しばらくの間声を絞り出す事もなかったかのように、いたずらに、ぎこちなく単純な動きを繰りかえしていた。
そんな男を見ているうちに、こんな雪の夜に なんとも気の毒なことだと思った私は、小銭でも何かの足しにはなるだろうと、外套のポケットを探ったが、今夜に限って まったく小銭一枚探り当てられない。
私は あわてて外套の前を開き きている物のポケットというポケットを探った。
果たして 手にふれた物は 汗や手を拭いたハンカチ一枚きりだった。
私は たった一つの持ち物であるそのハンカチを 申しわけない思いで 握り締め、こんなもので この男が満足するはずもない 一体どうしたものか・・ と 途方にくれてしまった・・
「おめぐみを・・。だんな お恵みを・・。」
男は そういいながら 私に近づいてくる。その危なげな足取りや 近づくにつれて 臭ってくる体臭、明かりの中で 今まで見えにくかった 男の様子などを見て、私は はじめに さっさとやり過ごさなかったことを後悔した。
雪にまみれながら この男はずいぶんと長い時間を、こうして人の通るのを待っていたのだろう。
しかし 出会った男は 彼にとって 何の暖かさももたらさない自分だったのだ・・。
そう思うと 私は、無性に 彼が気の毒になって、持っていたハンカチを持ったまま、彼の 空に泳ぐ力失せた手を、見事に汚れ切った黒い汚い手を、思わず握り締めてしまった。
男は大層驚いて、一体なにが起こったのか というような表情をし、ことを理解するまでの 短い時間を 目をしばたたかせ 口をあんぐりとしたままでいた。
雪は ますます降りしきり、立ちっ放しの体の芯にまで 冷たさがしみこんでくる。
突然、男が慌てたように私の手を振りほどこうとした時、私は 思わず叫んでいた。
「すまない。兄弟! 本当に これしかないんだ。」
なぜ そういったのか 自分でも 全く思いもよらなかった。
だが、彼は確かに人間で、それも私と同じくらいの年恰好で、たまたま何の故にか、今の境遇になったのだ。 もしかしたら 彼は、私だったかもしれないのだ。
ほんの短い時間にそう思ったとたん、私は男の手を握り締め、あの言葉を叫んでいた・・
男の、冷たい手の感触が伝わってくる。彼には 私の温もりが 伝わっているのだろうか・・・
いつの間にやら男は手を解き、あまりにも穏やかな顔つきで私をじっと見つめて立っていた。私は 少々たじろいだ思いで 彼から離れた。
すると 彼は 酷く遠慮がちに そっと私の腕に触れて、言った。
「ありがとう だんな。充分でさぁ。この俺を 兄弟といって 手を握ってくれたんだ。ほんとに・・それで充分だ。」
そして かすかな微笑を残して 灯りを抜け、降りしきる雪がその闇さえも覆い尽くすような寒さの中を、私に背を向けて いってしまった・・。
私は 薄ぼけた街灯の中に ただ 呆然と立ち尽くすばかりだった。
|