昔、ずっと遠くのむこうまで水田の広がる中に、ぽつんと一本 古い榎の木が残されている場所がありました。
ずいぶん古い小ぶりの木ではありましたが、夏になるといつも緑の葉が茂り、水田を渡る風に濃い影を木の下の道や水面に投げかけたり、その枝は いつの年も 鷺たちの眠りのために、気前よくさしだされていました。
さて、水田の稲草が良い加減に茂るころ、榎の枝の下に、長いこと住んでいる古いタニシが ふと 顔を出しました。
あまりに年取っていたので、動くのもものすごくゆっくりで、実際ほんとに生きているのかどうかも よくよく見ないと分からないほどでした。
そして その色も大分普通のタニシと違って まるで石ころのようでもありました。
その時、榎の木には 一羽の白さぎが止まって 辺りを見回していましたが、田の中の何かに気がつくと じっと目を凝らして見つめ、それが 年取ったタニシであることをしりました。
古タニシは、ずいぶん長い時間をかけて、さっきよりも ほんの少し先に動いたり、向きを変えたりもしていました。それを見た白さぎは 大きなため息をつきながら タニシに向かって言いました。
「なんと うらやましいことだ・・。まったく願わずにはいられないほどだ。
私は、一日中飛び回ったり歩きまわったりして ようよう生きながらえているというのに、あなたは 私がほんの三またぎ歩く距離で、一日を暮らすのだから・・!
」
古タニシは それを聞いて特に返事をするという風でもなく つぶやくように言いました。
「自分としちゃあ これでも十分急いではいるんだがね・・。いやはや、回りは 全部食べ物だらけ。どこから食べたらよいものやら、気が付くと いつも腹いっぱいじゃ。」
全くのところ とくにコレという高望みさえしなければ、それは結構な暮らしではありました。
ところで、その古タニシのそばには、小さな まだ若いタニシが遊んでいました。
小タニシは じさまタニシと白さぎの話を聞いていたのですが、タニシと生まれたからには じさまタニシのように、ずっとずっと泥の中を這いずり回って、余計なことは考えずにいれば食べ物に困ることは無いかわりに、まず この水田の中からは 一歩も出ることはないことをしっていましたので、大空を自由に飛びまわれる白さぎの強さや美しさ、そのすばらしい日々に 大いに憧れていました。
ふと、白さぎは じさまタニシにいいました。
「あなたほどの長きを生き抜いてこられたお方だから、申しますがね、タニシさん、どうでしょう、この私の翼をあなたにさしあげたいのですが。自由に大空を 思う存分飛んでみるというのも よいものですよ。」
「ほほっ。まぁ それも悪くはないが・・、ぃやぁ、これはこれでよい。ほう・・、腹が一杯じゃ。眠くなった。」
古タニシは そういうと 殻の中に首をすぼめて すぐにいびきをかきはじめました。
さて、古タニシが眠ってしまったのを見て、小タニシは、いそいそと白さぎの止まる枝の下に行き、声を掛けました。
「もし、白さぎさん。さっきの話し、聞こえていたのですが、その翼、私にでもおゆずりいただけるのでしょうか?朝には 大空に向かって遠く飛び行き、夕暮れになると 山の向こうから戻ってこられる、その白い翼、私にゆずってもらえませんでしょうか?」
すると、白さぎは 少しあきれたような様子で いいました。
「・・。お前さんのような まだ何も分かっちゃいないものが そんなことを願うなんざ、やめといたほうがいいってものさ。変った世界で苦労するよりも 今の世界でより良く生きることだ。空を飛べたからといって 楽なばかりがあるものか。」
白さぎは そう言い放って、榎の枝を飛び立ちました。
小タニシは 白さぎが飛ぶときに落としていった餌になる糞を 喜んでぱくついたものの、やはり それは なんとも惨めで情けない暮らしと 思わずにはいられませんでした。
それから しばらくの間、小タニシは 白さぎの翼のことを 繰り返し考え続けていましたが、あるとき どうにも我慢ならず ついに、古タニシにはなしかけました。
「じさま。ききたいことがあります。」
「なんだ。」
「この間の白さぎさんの話しですが・・。」
「ふむ・・。」
「あの白さぎさんは どうして じさまに自分の翼を上げたいと思ったのでしょう?」
古タニシは もぞっとうごくと 低い声で言いました。
「・・。それは、今のわしが ずいぶんと長く生きてきて、この世のものでありながら、この世のものでもあの世のものでもなくなりかけているからだろうさ。
この世にあるものは 長い長い時を経ていくうちに すべて、点になり無になる。そして そこからまた別の何かに生まれ変わっていくからだろう。」
小タニシは 少し考えて言いました。
「じさま。私はまだそれほどには生きてはいません。でも、もしも 一生懸命願って、私が点になり無になったら・・、次には 白い翼を持った鳥になれますか?」
古タニシは 一瞬 恐ろしい顔になりましたが、すぐに 小タニシを じっと見つめ、少し哀しげにいいました。
「お前が 自分の姿を良しとできないのは、悲しいことだな・・。」
長いこと考え、長いこと悶々としてきた小タニシは それを聞くと ほろほろと涙を流して言いました。
「私は、もう さんざんに自分を考え 悲しみ、その上でお願いするのです。」
古タニシは ずーっと はるか昔、自分も そんな風に 自分について泣き、悲しみ、泥の滲んだ水の中から 空を仰いで、高く飛び交う鳥たちの自由に憧れたことのあったことを ぼんやりと思い出しました。
そうだ・・、だれでも 若いうちは そんなふうに 自分の境遇について『もしも そうでなかったら』・・と 思うものだ。
自分は もう 十分に年を取り、時を食って生きてきた。そうだ。それでも そんな風に思ったことは 確かに 自分にもあったことだった。
古タニシは 半分つぶっていた目をゆっくり開けると、さめざめと身も世もなく泣いている小タニシを じっと見つめて言いました。
「今晩、榎の木の下に来るがいい。白さぎの眠っている枝のところへ。お前の望みが叶うものかどうか、やってみよう・・。」
その夜、榎の木で 羽を休めている白さぎの枝の下では、古タニシと小タニシが じっと空を眺めておりました。
その晩は、きれいな月夜で、稲草も榎の枝に眠る白さぎも、回りの何もかもが 金色に輝き、いつもなら 月の光の眩さにくらんで その輝きも薄れるはずの幾千もの星々さえも、不思議なことに さらにさらにと輝きを増し、まるで しゃらしゃらと擦れ合う音とともに降り注いでくるようでした。
ふと、小タニシは、その輝きの天蓋の中に入り込んだ古タニシが、目を閉じてじっとしているのを見ました。そして、いつの間にか 古タニシは どんどん大きく膨らんで、その体は水から浮き上がりながら 星々の輝きを集めて きらきらと光り、まさに天のように大きく広がって、あたり一体を 大きな翼で多い尽くそうとするかのように見えました。
|
小タニシは その眩さに 目を開けているのも辛く、こらえきれずに 顔を背けてしまいましたが、その時、ふと 自分の硬い殻が、柔らかい幾枚もの羽に覆われた翼のある身体に変わっているのに気が付きました。
小タニシの身体は、月と星の輝きを集めた金色の鳥になっていたのです。
そして、その夜が終わり朝の光が届くころ、あの小タニシは、紛れも無い白い翼の小鷺になったのでした。
|
足元を見れば、古タニシは あの夜のじさまなど 思い浮かべることもできないくらい、ただの古い年取ったちいさなタニシのまま、相変わらず 泥にまみれて ぶくぶくと泡を吹いていました。
気持ちのよい朝です。小鷺は 榎の枝の上で 大きく羽ばたくと、思いっきり力を込めて真っ青な空に舞い上がりました。
飛べる!
そう! こんな風に 高いところから 自分の住んでいた泥の世界を 見下ろしてみたかったのでした。
こんな風に―泥でにごった水の中をもぞもぞと惨めに這い回るのではなく―自由に、何にも妨げられず、いきたいところへ すばやく 自在に行ってみたかったのでした。
なんという自由! なんというすばらしい翼!!
小鷺は 歓喜のあまり 声高く叫ばずにはいられませんでした。
そして 小鷺は、その一日を 川に沿って飛び、山辺を巡って あちこちの餌場を目指して飛びすごすようになりました。
それから・・、山も川も水田も 何もかもが 静かに眠りに入る準備をする季節になるころ、いつもならば 泥に潜って 寒い冬を越すための寝場の支度を始めるのに、今年の小鷺になった小タニシは、初めて 眠らずに木枯らしをその身に受けて過ごすことになりました。
これまで 食べ飽きるほど沢山の食べ物のあったあちこちの餌場をめぐっても なかなか 餌を見つけることも難しくなり、十分に食べられない日が続くと、自慢の美しい軽やかな羽さえもが ずっしりと重く感じられるようになりました。
ある日、子鷺は あまりに長いこと 十分に食べることができないまま、昔の古巣の榎の木の枝に止まり、途方にくれて じっと 木の下の泥水を見つめていました。
すると・・、そこには 小さな小タニシが まだ うまく泥に潜れずに 遊んでいるようにみえました。その おぼつかないしぐさを見ているうちに、小鷺は それが かつての自分であることに気付き はっとしました。
・・が、今の小鷺には それさえも空腹のための餌でしかなかったのです。
かつての自分です。それを思えば、やっぱり いくらかひるみました。でも、でも 今は あまりに空腹、絶えられないほどなのです・・。
どんどん 小タニシが大きく見えてきます。
あとすこし というところで どこかで聞いたような声が「やめろ!やめんか!」と叫んだようでした。
くちばしに挟まれた小タニシは 泥を吐きながら ジクッジクッと泣きました。
こうして 小鷺は・・、かつての 自分を 食べました・・。
哀しく 辛い晩でした。
小鷺は その夜、散々泣きました。もう 涙も枯れはて、一滴の涙を搾り出すこともできないくらい泣きました。
あ、そら あそこ。 あの 榎の木の枝に止まっている白さぎ。
いつも 一羽だけで 誰とも話さず、ただ黙って 枝に止まっている小さな白さぎ。
苦しみながら流した涙のために 目の縁が真っ赤になってしまった小さな白鷺。
あれが 小タニシの自分を食べた 一人ぼっちの小鷺です・・。
|