3月のお話  神さまの子

 

 『私は、生まれたときから 人の都合で生きてきました。親は 自分を生んでくれましたが、その親の顔も知りません。親の都合で 親戚の家をたらいまわしにされ、親戚の人たちの都合で養護施設に入れられ、養護施設の人の都合で大阪に就職し、そして 病気になって ここに来ました。

 なんで こんなことになったのか、いろいろ考えたりうらんだりもしました。

 ある時、この地区の教会の神父さんがやってきて、いろいろな話をしてくれるというので、自分も聞きはじめました。話は 分かりやすいのも 難しいのもいろいろありましたが、私は 毎月2回、神父さんが来て 話をしてくれるのがとても楽しみでした。

 その神父さんが ある日、別の地区に行くことになったといって、お別れに聖書を一冊くれて、毎日読みなさい と言いました。私は それから ずっと 毎日毎日 少しずつ 聖書を読んできました。

 普通に生きていると、何かをしなくちゃ価値が無いように思えるときがあって、たとえば 私は大阪の工場で働いているときに、自動車の免許を取ってちゃんと就職しようと思ったのですが、私のようなものには 保証人になってくれるような人もなく、まともな仕事に就くこともできません。いろいろやってみたい、こうしようと考えても、いつも 身寄りが無いことや施設で育ったことなどが邪魔をして、人からもなかなか 受け入れてもらえないのです。

 そのうち、なにをやってもだめだし、その前に何かをしようとすることさえ、はじめから 自分にはその資格が与えられて無いのだと思うようになったとき、重い寂しさがぎゅーっと私を押しつぶして、私は私でありながら 私ではなくなりました。

 生まれ故郷に戻って、この病院にはいってから、いろいろ考えましたが、面会に来てくれる神父さんとの話や神父さんにもらった聖書を読んでいるうちに、ふと、自分はこれまでずっと 人の都合で生きてきたんだ。自分の都合でなんか 生きてきたことは無かった ということに気づきました。しかし、それでも ここまで生きてきたのは、それはきっと 神様の都合だったんだろう と 思ったのです。

 そう思ったら、自己実現とか いい生活をしたいとかっていう、自分の願いをかなえることなんか どうでも良くなってきて、これからは 神様の都合を先にしようと生きればいいんだ と おもうようになったのです。
 そして、そう思ったとたん、なんだか すーっと 心も身体も楽になったんですよ。

 その時、何の気なしに開いた聖書の箇所に”平和のために働く人は幸い。彼らは神の子と呼ばれるであろう”と 書いてありました。私は 思いました。

 私は ずっと 誰かの子 というものではなかった。でも 神様だったら、私が平和のために働いたら「神さまの子」と言ってくれるかもしれない。

 私は だからね、「神さまの子」と言われるようになりたいです。』

 少しはにかみつつ ごましお頭を片手でなでながらそう言った笑(え)むさんに、僕は ちょっとからかい気分も手伝って

 「平和のために働くって ここ(精神病院)にいて どうやるの?毎年の終戦記念日と原爆投下記念日にプラカードを持って、病院の廊下を戦争反対!っていいながら、行ったり来たりするの?」 

 と 聞いてみた。
すると 笑むさんは、「そうですよね。」といって、困ったように笑っていた。

 

 その後、笑むさんは 肝臓を悪くして 手当ての施しようの無い状態になった。
  僕は あいかわらず 月に2回ほど 笑むさんに面会することを 自分の仕事の一つにしていたけれど、ある日・・、そう あれは 笑むさんが亡くなる2ヶ月前。

  その日も 約束した面会日だったにもかかわらず、僕は なんとなく行きたくなくて、病院に電話して 言った。

 「すみません。今朝から腹がしくしくしていまして、今日は 其方に行かれません。明日 行きます。」

 ベッドの上で 起きることも 難しくなった笑むさんに悪いなとは思ったけれど、その日は なぜか どうにも行く気になれなかった・・。
 しかし、翌日は思いなおして、よし、今日は行こうと決めて 出かけた。

 病院に行って 笑むさんの顔を見ると 昨日のことが ことさら悪かったと思えて、僕は 笑むさんに謝った。

 「ごめんね、笑むさん。昨日は 僕 都合が悪くてね。」

 すると 笑むさんは こういった。

 『気にしないで下さい。神父さん。神父さんの都合のいいときでいいです。私は都合の無い人間ですから、だから 神父さんの都合を先にしてくれていいんですよ。』

 打ちのめされる というのは、こういうことなのだということを 僕は 初めて知った。僕は 帰りの道を 泣きながら帰った・・。

 

 それから 2ヵ月後の5月のさわやかな夕暮れ、天使が来て笑むさんを 神の懐へと連れて帰った。

 

 

 僕は かねてから 一人の身寄りも無い笑むさんを、なにかのときには引き受けるからね という約束をしていたので、その時受け持っていた自分の教会に、笑むさんの遺体を二日間おいて 弔った。

 その間、笑むさんが30年過ごした病院からは、医者も看護婦も看護士も誰ひとり来なかった。
 しかし、 病院の掃除のおばさんが二人 弔問にやってきた。

 「ああ、この人は ここ(教会)の人だったですか・・。」と一人は言った。

 「笑むさんはね、穏やかな人でしたよ。病院で 患者たちがけんかするといつも、笑むさんのベッドを間に入れたとですね。笑むさんは 決して自分の都合をいう人では無かでしたから。笑むさんがそこにいるとね、患者たちが静かになって、平和になったとですよ。」

 「やっぱり 笑むさんは 神さまの子だったからなんですねぇ・・。」

 僕は、ずっと以前に 笑むさんが

 『だれだれの子 といわれたことのない自分だけれど、平和のために働く人になりたい。神さまの子と呼んでもらえるだろうから・・。』

 そういっていたのを思い出し、言葉を失って 立ち尽くすばかりだった。

 当時、僕は 生意気な若造で、いろんなことに挑戦的で意欲満々なだけの、人のことをあまりに理解できずにいすぎた。 

 「誰々の子」と言われるのは ずっと笑むさんの望みだったのかもしれない。でも 笑むさんは だれそれさんの子といわれるよりも 神さまの子になることを望み、自分の都合を後回しにしながら、その願いを静かに粛々と成し遂げ そして 逝ったのだ。

 笑むさんとの出会いは、僕のそれからを 決定的にするものであった。

 

 

 先日、聞いた話を 聞かせてくださった方にお断りもせずに 勝手に脚色して掲載します。

 内容的には ものすごく違っていることは無いと思います。
  毎度のことながら 80%の作り話に 20%の真実です。

 私たちの周りには、ひっそりと 人知れず咲く野の花のような人生を生き、ごくわずかな人に見守られ、あるいは ひょっとすると誰にも知られずに この世を後にする人たちがいます。

 その人たちの周りに たまたまいたごくわずかな人たちが語ることによってのみ知られる彼らの存在は、時に 私たちの心に、まるで 荒海に浮かぶブイのように、ある時 位置をしらせてくれるものになることもありましょう。

 しかしながら、私自身が 彼らと同じく、やはり いなくなればそれほどの時を経ずに、失われる記憶でしかありません。

 そんな危うくたよりない自分であってさえも、こうやって生きている今があることを思うと、これを 無為にしてしまうことは 到底できるものではありません。

 誰のためでもなく、ただ そう在れと望まれたままに 生きたい です。

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