そのころ 私は 来年の中学受験に向けて、毎週日曜日はいつも、勉強を教わっている中田先生の家に行くことになっていました。
もう 夏休みになっていて、本当は すごく行きたくなかったんだけれど、家に居たところで、どうせ 親から勉強しろ、勉強したのか、などといわれるのは分かっていたので、暑い日差しの中を、面倒くさいなーと思いながら その日曜日も 先生の家に向かって 歩いていました。
中田先生の家は、駅の向こう側にあり、踏切と広い道路を渡って、長い坂道を ゆるゆると登っていく途中にありました。
暑い夏の日中なんて、ただ やたらに蝉の声ばかりが聞こえ、時々とおる車が熱気を含んだ風を巻き上げて通り過ぎたり、道沿いの家から聞こえてくる子供たちの騒ぐ声が聞こえていたりするくらいで、日のじりじり照りつける道を こんな日中あるいているのは、まったく 自分くらいのもの でした。
私は お気に入りの縦に小花模様のラインが入った白い木綿のワンピースを着ていました。でも その服には 今 持っている勉強道具の入ったかばんは、まったくに合わなくて・・、それが すごく不満で 出掛けに 母に向かって あれこれ不平を言って むしゃくしゃした気分でいました。
長い坂道は、本当に長くて・・、いつになったら先生の家につくのかと思うくらい。夏の盛りの昼日中のその坂道の長さは、本当に うんざりでした。
殆どまっすぐなその道を歩くのは、向こうに見えている 暑さに白いほどの空に向かって歩いているような感じでした。
あぁ・・ もう あつーい・・。早くつかないかナー・・
先を見ると いい加減 嫌になるので、うつむいて 足元ばかり眺めながら、できるだけ何も考えずに 機械的に足を運んでいた私の視界に、ふと、その 黒い影が入ってきたのは その時でした。
私は 反射的に顔を上げました。
そこには 一人の知らない男の人がいて、黒い帽子を少しだけ手で浮かせて、眼鏡の向こうから こちらを見ながら 「こんにちは。暑いですね。」 と 軽く会釈しながらいったので、
「あ、はい、こんにちは。暑いですね。」 なんて、こたえながら すれ違いました。
そして その人は そのまま ゆっくりと坂を下りて行き、私は 中田先生の家への角を曲がりました。
ようやく先生の家について、門を開けて中に入り、涼しい部屋の中で ほっと一息ついていると、お手伝いの孝子さんが、冷たい麦茶を持ってきてくれました。
「ご苦労様。あつかったでしょう?大変ね。」
「ありがとうございます。暑かったー。」 といいながら、私は麦茶をぐーっと飲みました。
「もっといる?いりそうね。」
そういいながら 孝子さんが笑って部屋を出て行くのと入れ替わりに 中田先生が入って来ました。
「いらっしゃい。暑いねー。あら、きょうは きれいなワンピース、良く似合ってるよ。」
先生のそんな言葉から ワンピースの話、ソレに似合わないかばんの話などをしたあと、ふと さっきの男の人のことを思い出して、なんとなく そんなことも言いました。
「・・でね、先生。そういえば その人 変だったなぁ・・。」
「変って?何がどう変なの?」
ちょうど 孝子さんも新しい麦茶を 先生の分と一緒に持ってきてくれながら聞きました。
「うん、あのね。だってね、ほら、こんなに暑いのに、その人、黒い帽子でね。」
「黒い帽子くらい かぶるでしょう?夏だって。」
「うぅうん、違うの。ほら、なんていうのかな。男の人が冬にかぶるような あったかそうな帽子あるでしょ?それをかぶっていたの。」
「ほんとう?みまちがいじゃないの?」
「違わないよ。だって、ほかにも その人 足袋履いていた、黒いの。それに コート着ていた・・、それも 黒いの・・。」
先生と孝子さんは だまって顔を見合わせました。
「どんなコート?」 と 先生が聞いたので、私は ざっと 絵を描いて見せました。
「これに・・、このコートに、黒い帽子で足袋はいて?」「うん。」
「めがねかけていたのね?」「うん。」
「・・で、こうやったの?」
孝子さんが あの男の人のやったような手つきで 頭の上の帽子を すこし持ち上げて見るようなしぐさをしたので、私は そうそう、そうやったの、と言いました。
「ゆみちゃん、ね、その人・・ こんな人?」
先生がたちあがって 部屋の書棚から取り出した 大きなアルバムを開いて 一枚の写真を見せてくれました。
体格のよさそうな眼鏡をかけたおじさんが、今 私たちの居る部屋の、いつも 私が勉強を見てもらうテーブルについて、分厚い本を広げて 何かしているところに 突然声を掛けられて ふっと顔を上げた というような そんな写真がありました。
私は、じっとソレを見て・・、一瞬しか見なかった人なので そうなのかどうか 良く分からなかったのですが、でも 見ているうちに だんだん ああ そうかも、この人かも、きっとこのおじさんだ、と 思うようになって、
「ウン。多分 そう。このおじさんだったような気がするな。」 と 言いました。
先生と孝子さんは 驚いたような顔をして 黙って写真を見たり、お互いの顔を見たりしていました。
そこへ、ドアが開いて 先生のお母様がいらっしゃいました。
「あら、ゆみちゃん、来てたの?暑かったでしょう、麦茶は?もう飲んだ?」
私が はい と答える前に、先生のお母様は 先生と孝子さんの様子がおかしいのに気付かれて、どうしたの?と たずねられました。
「ゆみちゃんがね、もしかしたら お父様に会ったみたいなのよ。」
「お父様に?いつ?どうして?」
先生の返事に お母様は 早口に 畳み掛けるようにおっしゃいました。孝子さんは だまっておぼんをもったまま そこにいます。
ゆみちゃん、話して と 先生に言われて、私は お母様に さっきと同じことを話しました。
お母様も 私の話を聞いて 驚いたような顔をなさって たったままじっと 私をごらんになりました。
「ゆみちゃん、どこであったの?そのおじさんに どこであったの?」
「すぐそこです。道に出て 駅のほうに向かって・・、そうだなぁ 50歩くらいのところ。」
「ずっと下を向いて歩いていたんで、全然気が付かなくて、でも あちらからあいさつしてきたんで、私も こんにちはって言ったんですよね。黒い格好していたの。その人。」
私は どうして みんなが そんなことをなんども聞きたがるのか 全然分からなかったし、それに何の意味があるかとか どうして みんな 驚いたような、困ったような顔をしているのか分からず、なにか良くなかったのかと思って聞きました。
「どうかしたんですか?あのおじさんと 話しちゃいけなかったのかな・・?」
すると 三人とも いっせいに 我に返るような風にあわてて、そうじゃないの をくりかえし、そして 先生が言いました。
「私の父はね、ゆみちゃんが見たような格好をしていたのよ、いつも。出かけるとき以外は たいてい着物だったから、冬は ほら、ゆみちゃんが描いてくれたようなコートを着てね、黒いたびを履いて、黒い帽子をかぶっていたのよ。」
「そう、だんな様は いつも そういう格好でおでかけでしたね、冬は。で、どなたかに合うと 必ず 片手で帽子を少し持ち上げて 軽く会釈なさって 挨拶なさいましたよね。」
その時、私は 皆さんが 過去形で話しているのに気づき
「先生のお父様 どうしたの・・?」と ききました。
「亡くなったの。数年前にね。」と 先生。
「そうよ、亡くなってね、だから 似たような人だったんでしょうね。」と お母様。
「でも、おくさま。いくら似ている人といっても この暑い最中に なんでそんな格好で・・。」
孝子さんの言葉に 私たちは 黙ってしまいました。
その日は まったく勉強なんかになりませんでした。
当然でしょう。だって ひょっとしたら 私は 数年前に亡くなられた中田先生のお父様と、真夏の真昼の 誰も通らないような坂道の途中で すれ違い、その折、挨拶までしたのかもしれないのですから・・。
「だけど・・。」 と 私は言いました。
「全然、怖く無かったよ。普通。なんにも怖くなかったけどなぁ・・。」
そういう私に 先生は
「当たり前よ。父は 女の子を脅かすような人じゃなかったもの。」
「そうですよ。だんな様は 穏やかで 優しい方でしたから ね。」と 孝子さん。
「まぁ・・ 驚いた。ほんとに 驚いた。でも なんだって ゆみちゃんなんだろう?どうして 私たちじゃなかったのかしら?」 と お母様。
先生は アルバムをパタンと閉じて、書棚に戻しながら 笑って言いました。
「孫がほしかったんじゃないの?ゆみちゃんみたいな 女の子が。」
お母様も孝子さんも先生も いきなり笑いだし、お母様がいいました。
「そうよ、やっぱり そうなのよ。だから はやく いきなさいってなんども いってるじゃないの!みんな のんびりしすぎだわよ。」
お母様は 早口に大きな声で言いながら さっさと部屋を出て行かれました。
先生は すぐに たって 部屋を出て行きながら、孝子さんに
「たかちゃん、ゆみちゃん 見てて。」といいました。
「どうしたの?」と 分けが分からずに聞く私に 孝子さんは 少し悲しそうな顔をして
「奥様は できたら だんな様にあいたかったんじゃないかしら ね・・。」
と言いました。
私は ああ、そうか・・とおもい
「じゃ 悪かったね。こんな話して。だけど 嘘じゃないんだよ。」
「うん、わかってる。だけど ほんとに 不思議だわ・・。だんな様は ゆみちゃんを知っていたのかもしれないわね。いつも来ている子だとおもって 声を掛けられたのかもしれない、ね。」
なんとなく 居づらくなった私は、テーブルの上のものを片付けてかっばんに入れ始めたのですが、ちょうど そこへ先生がいらして
「ごめんね、ゆみちゃん。今日は そうね、おしまいでいい?」と 言いました。
「はい、いいです。あのー、すいませんでした。私 変な話して。おばあちゃま、気を悪くなさったんですか?」
「そうじゃないの。母は 父が 凄く好きだったから。ゆみちゃんにやきもち焼いたの。」
先生の 本当なのかどうなのか 分からない言葉を 不思議に思いながら聞いていると、孝子さんが おかしそうに笑いながら 言いました。
「だめですよ、晶子さん。ゆみちゃんがおうちでお話したら どうします?」
すると 先生は ちょっと あわてた様子で 笑いながら言いました。
「ま、忘れて頂戴。私の言ったことは ね。
ゆみちゃんが いい子だからよ。いい子でよかった。そうじゃなかったら こんなこと 無かったでしょうものね。」
先生の言っている言葉の意味はよくわからなかったけれど、なんとなく 私は おばあちゃまが 泣いてしまわれたのかな・・ と 思いました。
そして、それが とても 痛いような気持ちになって、すこし 寂しい思いがしました。
いつも 勉強が終わって 玄関で靴を履いていると 必ず 先生のお母様も孝子さんも 先生と一緒に 気をつけてね、また 来週ね と いいながら 見送ってくださるのですが、その日は お母様は 出ていらっしゃいませんでした。
いくらか涼しくなった夕焼けの広がる坂道を下りながら、私は ようやく 行き来し始めた人たちの中に あのおじさんを 探していました。
海辺の町の夕凪時は 日も傾いて暑さは和らいだものの、日中の熱気が立ち込めて、まだむっとしたところがありました。
私は、普段なら そんな中を いつまでも のんびり歩いて 汗だらけになるのなど、到底我慢できなかったのに、その日は なんとなく いつまでも この坂道を歩いていたい気分でした。
そして もしかして あのおじさんにであったら 一緒に来てくれるように頼んで、おばあちゃまにあわせてあげたいなぁ と 思いながら、星の光り始めるころまで 坂道を 行き来していました。
|