10月のお話  鷲にさらわれた子供

 


 昔、近江の国(今の滋賀県)に、夫を亡くした女が まだ二つになったばかりの息子と暮らしていました。

 母親は、毎日子供をおぶって、近所の畑の手伝いなどをしながら 子供と二人、それでも なんとか暮らせていました。

 母親は たいそう信心深く、日々 如意輪観音菩薩さまにおすがりし、朝に晩にと 祈りを絶やすことがありませんでした。

 そして、その日も いつものように 小さな息子を背負って、近所の畑に出向きましたが、今日は 桑の葉を摘むように と言われたので、小さな息子が かぶれたりするといけないと思い、ちかくの切り株の根方のくぼみに 子供を寝かしつけて、なくなった主人と一緒に求めた 如意輪観音菩薩さまのご像を 子供の着物の懐に入れると、手を合わせて言いました。

 「観音様、私は これから 桑の葉を摘みに行って来ます。すぐに 戻ってきますので、その間、どうか この子をお願いいたします。守ってやってくださいまし。」

 そして 母親は 急いで桑畑に向かいました。

 ところが、母親が立ち去ると すぐに、それまで どこにいたのか、突然 空から 大きな金色の鷲が舞い降りてきて、ばっさばっさと翼を羽ばたかせたので、子供は 目を覚まし、びっくりして 泣き出しました。

 子供の泣き声に驚いた母親が振り向くと、あろうことか 自分の息子を 大きな金色の鷲が むんずとつかんで 今にも 空に羽ばたこうというところでした。

 「待って!まって!ぼうや!お願い!坊を連れて行かないでー!」

 母親は 声を限りに叫びながら 大急ぎで 走りましたが、大きな鷲は その力強い翼をいっぱいに広げて風に乗り、みるみるうちに 山の向こうへ 見えなくなってしまいました。

 母親の叫びを聞きつけて 近所の人たちが 集まってきました。
あるものは 山の向こうに消えた 金色の大鷲を見ていましたので、あれは 神様のお使いだ、きっと あまりに良い子なので、神様がお連れになったのだ、神様の手元にいれば 心配することは無い などといって、慰めようともしたのですが、母親にしてみれば そんなのただの気休めです。

 散々泣いて、あちこち 思い当たるところを皆で探しましたが、どんなにしても 子供は見つかりません。

 母親は、しばらくは どうしたものかと 泣いては悩み、悩んでは泣いていましたが、 ある時、泣いてばかりいたってしょうがない、どうしても探しに行かなくては、と 回りの者達が止めるのも聞かず、持っているわずかな物をすっかりお金に変えると、山の向こうを目指して 子供を捜す旅に出ました。

 途中、鷹が巣をかけそうな木があれば、一生懸命 上を見上げて 子供がいないか と 目を凝らし、人に会えば、大きな金色の鷲が子供を連れ去ったのを見なかったか と たずねながら、行ったことのない場所へも どんどん 足を運んで、方々を訪ね歩きました。

 わずかなお金は すぐ底をつき、母親は なんども あちこちの農家の手伝いをしたり、宿屋の裏で働かせてもらったりして、わずかなお金を作ると、すぐに また 子供を捜して 旅を続けました。

 そして・・、一年が経ち、二年、三年が経ちましたが、大切な子供のことは 何も分りませんでした。

 それでも 母親は 諦めず、朝晩 懐からちいさな如意輪観音像を取り出しては 手を合わせ、どうか 子供におあわせください。どうか 子供が無事でいますように、と 祈り続けました。

 そうやって 気が付くと 息子が大鷲にさらわれてから 30年が経ってしまっていました。

 

 若かった母親の黒い髪は すっかり白くなり、顔も日にやけ、ゆっくり休むことも無かったので、体も 大分くたびれ果てて、今では 毎日 歩き回ることは とても難しくなってしまい、時には もう なんの希望もなく思えて、ただ 一日中 物乞いのように 道端で ただ じっと座り込んでいることも ありました。

 もう ずいぶん、あちこち さがした。。 なのに あの子は どこにもいない。誰も知らないというし、見たという人も 嘘だったり 作り話だったり・・。
 ひょっとしたら、大鷲に連れ去られたとき もう すでに 死んでいたかもしれない。
 あるいは 鷲が空から取り落として 深い谷に落ちてしまったかもしれない・・

 疲れた母親の頭の中には、つぎつぎと 悪い考えばかりが浮かんできて、いくら 観音様におすがりしても なんにもならない、ちっともお助けくださらない、と 枯れ果てたはずの涙を 新たに流しながら、観音様をお恨みしたりもしていました。

 そんな風に べったりと地面に座り込んでいた母親の目の前を、ふと、ひとりの占い師が 通りました。

 「お待ちくださいまし!」 と 母親は 叫んでいました。

 思いがけないところから声を掛けられた占い師は、くたびれ果てた老婆の、ほこりにまみれの 日に焼けた頬を流れてできた涙の後を見て、思わず 立ち止まって じっと 老婆を見つめました。

 「お呼びとめして申し訳ございません。どうか この婆を哀れとお思いくださって お教えくださいまし。」  

 そして、一生懸命 コレまでのことを 占い師に話した母親は、いったい 自分は これから どうしたら良いものか、故郷に帰ったほうが良いのか、それとも これからも 子供を捜し続けたほうがよいのか、さがすとすれば どこをめざせばよいのか、と 必死になって 頼みました。

 占い師は、老婆の話を聞くと それならば、と いって 筮竹をとりだし、しばらくの時をかけて 一心に占っていましたが、ようやく 終えると、じっと 老婆の顔をみつめて 言いました。

 「この道を 川に向かって行きなさい。川には 渡し場がある。
 そこに行け と でた。」

 黙って立ち去っていく占い師の後姿を 母親は ぼんやり見つめていました。

川に行け? 渡し場がある? ・・ それは もう これから先には なんの希望も無い、だから はやく国に帰れ と いうことなんだろうか。。  
 あの占い師さまは 私に 子供が死んだとは言えなくて、だから 渡し場に行けと 言ったのだろうか。。
 ああ・・ きっと そうに違いない。

 すべての希望を失ってしまった母親は、力なく立ち上がると、とぼとぼと 川に向かって 歩き始めました。

 船の渡し場では、ちょうどやってきた船に乗っている人を迎えたり、これから その船に乗って出かけていく人たちなどで、にぎわっていました。

 母親は 少し離れたところで、その様子を見ながら 思いました。

 もう いまさら国に戻ったところで だれも自分のことなど 覚えているものはないだろう、でも だからといって これからどこに行くこともできない。

 自分の子供がこの世にいないというのなら、そんな世の中になどいたくはない。
 命を粗末にするのは 良くないが、私は 力足らずなりに できるだけのことはやってきた、だけど・・ もう 疲れた。

 「観音様・・」 母親は 懐から 長いこと持ち歩いて すっかり汚れてしまった ちいさな如意輪観音像を取り出すと、また ぺたりと道端にしゃがみこみ、両手でご像を額に押し頂きながら、小声で 祈りました。

 「どうか 私を憐れんでくださいまし。もう これ以上 生きていることは出来ません。どうか 哀れと思われて、これからすることを おゆるしくださいまし。でも どうかして、息子だけは 極楽浄土にお連れくださいまし。
 どうか お頼み申します。」

 そのとき、そばで 涼やかな声が 老婆を呼びました。

 「もし、婆さまや。」

 母親が 目を上げると、そこには 立派な袈裟衣を着たひとりの坊様が、うしろに 数人の小僧を従えて 立っていました。

 そして、静かに 老婆の前に身をかがめると じっと老婆を見つめましたが、その目には みるみるうちに 大波のように涙が溢れ、それは途切れることなく 坊様のわかわかしい頬の上を 流れ始めました。

 「・・お坊様。お坊様、いったい・・?」

 坊様は だまって 自分の懐から 白い布で包んだものをとりだすと、母親の目の前で 広げて見せました。

 なんと! そこには、自分の持っている如意輪観音像と まったく同じものが あるではありませんか!

 「あ・・、では・・、では、、お前様は・・!」
 「はい、母様。わたしは 母様の子でございます。」

 それは 確かに 切り株の根方に寝かしつけた息子の懐に忍ばせた 如意輪観音像そのものでした。

 

 あの日、金色の大鷲に連れ去られた小さな男の子は、山を越えて 遠く奈良まで飛び、大きなお寺の杉の木の枝の間に置かれたのを、寺の住職様が助けおろし、それからは お寺の子として いろいろなことを 仏法とともに教わりながら 大事に育てられたのでした。

 男の子は 大層かしこく、どんなことも 喜んで学び、長じて 立派なお坊様になったのですが、訳の分る年頃になったとき、小さな如意輪観音像とともに 自分の事情を聞かされてから ずっと、いつか 親に会いたいものだ と 思い続けていました。

 そして、ある時から、仏法を もっとひろく 世の中の人々にしらせたいから と、旅の僧となり、あちこちを巡って 教えを説きつつ、なにか 親の事について分る伝手は無いか と 探し続けていたのでした。

 お坊様は、母親を助けて お寺に戻り、それまで 長い間 することの出来なかった孝行を一生懸命 尽くし、母親もまた、親として 何もできなかった年月を埋めるように 立派になった坊様の息子を 大切にして、二人は ともに 仲良く暮らした ということです。

 

 このお話は ご存知でしょうか。

 大鷲や大きな鳥が 子供をさらって 別のところへ運び、子供はそこで すくすくと育って・・という話は、洋の東西を問わず いろいろな形で お話となって残っていますが、このお話も その一つではあります。

 まぁ 現実的な話としては、隠れてもうけた子供を、鳥が運んできたということにして、蔑ろにしないで育てるための口実だった などというのも あるようですが、どこの国にも そんなことが ずいぶんと昔から あった・・ということでしょうか。

 調べてみますと、このお話は 相州大山(神奈川県の大山)を開いたといわれる 良弁(ろうべん)上人という人についての説話だということですが、このお上人様、聖武天皇のころの人で、後に東大寺の初代別当(東大寺、興福寺、四天王寺などの諸大寺で、寺務を司る者。=ウィキペディア)の任を受けたそうですが、かなり 徳や才に秀でた人だったようで、民の困難をなんどか救ったりもしたようです。

 良弁僧正は『奈良時代の僧で、日本仏教に大きな足跡を残した、百済系渡来人の後裔にて、近江または相模の出身』とのこと。それで 滋賀県や神奈川県が出てくるのですね。

 幼いときから 利発で打てば響くようだったからでしょう、普通ではありえない 金色の鷲=天の使いが運んできた子供だった などという話が作られたのも 分るように思います。

 遠藤は ちゃんとは知らないのですが、この話は 明治のころに劇化されたり、のちに歌舞伎の演目にもなったようですが、さぞかし 見せ場のある 面白い芝居になったでしょうね。

 しかし・・如意輪観音像 というのを、調べていただければお分かりでしょうけれど、あの像の小さいものを 持ち歩くというのは・・、うーん なかなか 大変かも、なんて思ってしまいました。

 でも まぁ、すっかりその形そのものではないだろうな とはおもいますが、なにしろ複雑な姿形のようですから、その小さいものを それも懐に・・って、小さな子供には 痛いんじゃないかしら なんて 思ったり。。

 いや、でも よいのです、どんな風であれ、それは その時は「物」ではなく、信心の対象のわずかでも具体的な有様として、日々の不安や苦しみを 癒し慰めてくれる観音様の似姿として 持ちやすく工夫したものだったかもしれませんし・・ね。

 何も持たない人の、心のよりどころだったのでしょう。
信じる心の したたかともいえる強さを、感じてしまっていました。

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