その晩は とても静かで、月の綺麗な夜でした。
おばあさんは、いつものように、途中になっている縫い物を膝の上において、明るい電灯の光に 針と糸をかざして、近頃では とみに 見えにくくなって やっかいになっている糸通しに 気持ちを集中させていました。
なかなか 通らない糸に、「やれやれ、年々 張り穴が小さくなるようだよ。」と 小さくつぶやいていました。
時計の針が コチコチ いっています。遠くで 汽車の通り行く音がしています。すこし風がでてきたのか、雨戸がカタカタなっています。
町のはずれ、ちいさな庭に 思いついて建てたような おばあさんの家は、こんな静かな晩には ことさら ぽっちりと、さびしそうに 見受けられます。
でも、おばあさんは、子供達がでていったあとも、ながいこと こうやって 一人で暮らしてきたのでした。
おばあさんは 縫い物をしながら、いつも 若い時分に出会った人たちや出来事に思いをはせたり、遠くに住む親戚のことをおもったり、可愛い孫娘のことをおもったりするのでした。
ちくちく、ちくちくと おばあさんの針は 進みます・・
ふと おばあさんは なんだか だれかが雨戸をたたくような音を聴いたように思いました。
おばあさんは ちょっと 顔をあげて、窓の方をみましたが、特に変わった様子もないので、また 縫い物の続きをしようと 構えました。
すると 今度は さっきよりも はっきりと、雨戸をたたく音がきこえたのです。
風でないとすると なんでしょう? こんな夜更けに だれが、それも 雨戸をたたいて くるのでしょうか。
いぶかりながらも おばあさんは、そっと 窓をの鍵をあけ、雨戸をすかして外を見てみました。
すると そこには、太い黒縁のめがねをかけて 鼻の下にもっさりした髭を蓄えた 小さな男が、大きなかばんをさげて、たっていました。
おばあさんが、どなた?と いうと、小男は かぶっていた 黒い帽子をとって、首をかしげながら お辞儀をすると にっこり笑って言いました。
「こんばんは、おばあさん。わたしは めがね売りです。」
「めがね売りですって?」
「はい、めがね売りです。私は この町は 初めてなのですが、実に気持ちのよい町ですね。 そして 今日は こんなに 月が綺麗で、まるで あたたかな水の底で たゆっているような いい気分なので、それで こうやって 表を歩きながら めがねを売っているのです。
私は、たくさんのめがねを持っています。いかがですか?おばあさん、めがねはおいりようではありませんか?」
めがね売りは、胸の上に帽子をもったまま、たのしそうに、話しました。
おばあさんは、糸が針になかなか通らなくて、毎晩 苦労していましたから、じぶんに合うめがねがあるのなら、と めがね売りに聞いてみました。
すると、めがね売りは ひょいっと帽子を頭に載せると、かばんを地面において 蓋を開け、中のめがねを ちょっと眺めると、すぐに きれいな べっ甲縁のめがねを手に取り、おばあさんに 渡しました。
おばあさんは、月の光に やわらかく模様が浮いて見える、べっ甲のめがねをかけ、ちょっと 窓を離れて 針の穴を見てみました。
見えます、見えます! くっきりと はっきりと 針の穴が見えました。
そして すぐに 糸の先をよると、ためしに 糸を針穴に通してみました。
糸は、見事に すーっと なんの苦もなく あたりまえに 通りました。
「あ、時計の文字も はっきり見えるよ。針あなに 糸がスーッと通る。ああ うれしい。このめがね、これを おくれ。」
そして 小男は お金を受け取ると、かばんの蓋を閉めて、手に提げ、帽子のつばにちょっと手をかけて 軽く挨拶すると、おばあさんが 見送る先を ゆっくり 歩いて行ってしまいました。
おばあさんは めがねをかけたまま、庭の花々を見てみると、一つ一つの花が きれいに はっきりと見え、そうすると なんだか 花の香りも いつもよりも よく香ってくるような、そんな気がして、にっこりすると 静かに 雨戸を閉め、そうして また 縫い物に取り掛かりました。
糸が針に なんどやっても 当たり前にすっと通るのです、こんなに嬉しいことはありません。
おばあさんは ニコニコしながら、縫い物を進めていました。
しばらくして、おばあさんが ふと 時計を見ると、もう だいぶ 遅いことに気付いたので、ひょいと めがねをはずすと、棚の上に だいじに そっと 置きました。
そのとき、おばあさんは また、今度は 表の戸をこつこつとたたく音が聞きました。
不思議な夜だわ、今夜に限って 二度も戸をたたくものがあるなんて・・、と 思いながら、おばあさんが そうっと 戸を開けると、そこには かわいらしい 綺麗な 12〜3の 女の子が、眼に涙を浮かべて たっていました。
「おや、どこの子だろう。どうしたんだい?こんなに遅く・・」
すると 女の子は、すこし うつむきながら おばあさんに言いました。
「遅くにほんとうに すみません。私は 町の香水工場で働いていて、毎日、白バラの花を摘んでは 香水づくりをしています。そして 毎日 夜遅く 帰るのですが、今日は あんまり月が綺麗なもので、つい ぶらぶらと 夜道を歩いていましたところ、石につまづいて 怪我をしてしまいました。
このお家の前にきたら、まだ 明かりがついていたので、おばあさんが 起きていなさると思い、ご迷惑かとも思ったのですが、尋ねてしまいました。」
おばあさんは、女の子の体から とても よいにおいがしているのに、さっきから 気付いていました。
「そんなら、おまえさんは、わたしを知っているのかい?」
「はい、私は、たびたび このお家の前を通っては、おばあさんが 窓辺で 針仕事をしているのを 見ています。」
「まぁ、それは、それは。どれ、怪我したところを 見せてごらん。何か薬を付けてあげよう。」
おばあさんは、少女をさそって 家の中に入れ、電灯の明かりの下へ連れてきました。
そして さっき棚の上においた めがねをかけて、少女の傷をよく見ようと、振り返ってみました。
めがねをかけて 女の子を見たおばあさんはl、びっくりしてしまいました。
おばあさんについて、家に上がってきた少女は、娘などではなく、きれいな ひとつの胡蝶だったのです。
おばあさんは、昔、月の綺麗な静かな晩には よく 胡蝶が人間に化けて、人を尋ねてくることがある というのを 聞いたことを 思い出しました。
そこで、おばあさんは、先に立って 戸口を開け、少女に声をかけて いっしょに 裏庭に出ました。
少女は だまって おばあさんに ついてきました。
裏庭には たくさんの花がさいて、よい香りを 静かな青い光の中に にじませていました。
庭の一隅には、真っ白な野ばらが、こんもりと茂って まるで 雪が積もったように 咲いています。
良い晩だこと・・ と おばあさんがつぶやきながら、後ろを振り返ると、後からついてついてきているはずの少女の姿がありません。
はて・・?と いぶかりながらも おばあさんは、少しの間 そこに 立っていました。
そして 月を仰ぐと、ちょっと 微笑んで、口の中で 小さく言いました。
「みんな、おやすみ。どれ、私も寝よう。」
そうして おばあさんは 家の中に入りました。
ほんとうに とても 静かな きれいな月夜のことでした。
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