私は 子供のころ、横浜の山手にある 外国の子供たちと一緒に学べる学校に通っていました。
学校へは、横浜の港のそばの海岸通りを歩いて行くのですが、いつも 港には、日を受けて輝く青い海と 広くて明るい空を背景に たくさんの色鮮やかなきれいな旗などで飾られた 大きな外国船が いくつも停泊しているのを見ることができました。
子供の私は、それを見るのが とても楽しみで、絵が得意だったこともあり、よく長いこと その様子を眺めては、急いで家に帰って、見た通りを絵に描いたりしていました。
でも、いつも、自分の描いた絵には どんなによくできたとしても不満が残りました。
それは、どうしても 見たままのように描けない海の青のせいでした。
自分の持っていた日本の絵の具では、どんなに工夫を凝らしたところで、どうにも出せない色合いだったのです。
一方、同じクラスにジムという 少々乱暴な、大柄な生徒がいましたが、彼の絵は どうみてもへたくそなのに、彼の持っている絵の具を使うと、そんな絵であっても なんだか とてもうまく見えたのでした。
そして、私は、彼の絵の具箱の中に 海の青が そのまま出せる絵の具が入っているのを、知っていました。
あれがあれば、僕の絵は 絶対に 誰よりもうまいのに。。
私は 絵を描くたびに、そうおもっていました。
そのうち、そんな思いが高じて、私の頭の中は、ジムの絵の具のことで いっぱいになってきてしまいました。
当時、私は、見た目はかわいい顔をしていましたけれど、体も小さく、運動も苦手で、いつも そっと できるだけ目立たないようにしていたので、ジムのように、大きな体でいつも走り回って 皆と騒いでは笑いあうような、そんな友達もいませんでした。
そんな私たちの担任の先生は、若くてやさしい女の先生で、そのころとしては 珍しく髪を短く切った 美しい人でした。
私は その先生が 本当に とても 好きでした。先生が 喜んでくださるためなら 何でもしたいと思っていたほど、毎日、何のために学校に行くかといえば、先生の顔を見に行くといっても 言い過ぎではないくらいだったのです。
僕を 先生の部屋に連れてきたジムと級長たちは、先生に一通りの話をしたあと、先生がなんというか、突っ立ってる僕の顔と先生を交互に見ながら 待っているようだった。
先生は 椅子に座ったまま、僕に向かって、おたずねになった。
「今、ジムがいったことは 本当ですか?」
僕は、確かに本当のことなのだけれど、僕が そんなにいやな奴だと先生に思われたくなくて、だから 答えるかわりに、とうとう しくしくと泣き出してしまった。
先生は、しばらく僕をみておられたが、ふと、ジムたちに向かって 静かに言われた。
「もう いってもようございます。」
ジムたちは 不満そうだったけれど、そういわれて しかたなく ぞろぞろと 部屋を出て行った。
後に残ったのは、大好きな先生と、大好きな先生を悲しませて 泣いている僕が残っていた。
先生は しばらく ご自分のつめを見ておられたが、ふと 顔を上げると 立ち上がって、僕の肩を抱いて 小さな声で そっと おっしゃった。
「絵の具は、もう 返しましたか?」
僕は 一生懸命 ふかく 数回うなずいた。
「あなたは、自分のしたことを いやなことだと知っていますか?」
先生が もう一度 静かにそうたずねられたとき、ぼくは もう どうにもたまらなくなって、しゃくりあげて泣くばかりだった。
「さぁ・・、もう 泣かないのですよ。よくわかったのなら、泣くのはやめましょう。
つぎの時間は 出なくてもよいから、この部屋にいらっしゃい。
静かに座って、私が戻るまで ここにいるんですよ。いいですね。」
そのとき、授業のための鐘が鳴ったので、先生は、机の上の本などを束ねて抱えられ、ちょっとの間、僕を見つめておられたが、ふと、窓のところまで蔓を伸ばしている ぶどう蔓からひとふさのぶどうをとって、泣いている僕のひざの上に それを置き、部屋を出て行かれた。
ざわめいていた校舎が、しばらくすると しーんとなり、僕は ただただ やたらに さびしくなり、あれこれ思って 悲しいばかりで どうしようもなかった。
ふと、肩をゆすぶられて 目を覚ますと、先生が そばに立っておられた。
僕は 眠ってしまっていたのだ。
先生と目が合ったとき、先生の微笑みに釣られて 僕も 恥ずかしさもあって すこし笑ったのだが、すぐ どうして 自分がこんなところにいるのかを思い出して、また すぐに悲しくなった。
「そんな悲しい顔をしなくてもよろしい。もう 皆 帰ってしまいましたから、あなたも帰りなさい。そして 明日は 必ず 学校に来るのですよ。あなたが来るのを 私は、待っていますよ。きっとですよ。」
先生は 僕のかばんに ぶどうを入れてくださり、僕は いつものように 海岸通りをとおって ゆっくり 家に戻った。
そして ぶどうを おいしくたべてしまった・・
次の日、僕は 本当に 学校に行きたくなかった・・!
どうかして 頭かおなかが痛くならないだろうか と思ったけれど、こんなときに限って 虫歯の一本も 痛くならないのだ。
しょうがなく、僕は のろのろと学校に向かったが、門のところまでくると、それ以上 どうやっても 前に進めなくなってしまった。
頭の中では、先生の「まっていますよ」という言葉だけが 繰り返され、それなら せめて 先生のお顔だけでも、と思い、ようやく勇気を振りしぼって、数歩、門を入った。
すると・・!
どうしたことか、待っていたように、むこうから ジムが走ってきて 僕の手を取ったのだ。
なにがなんだか わけがわからないまま、僕は ジムに手を取られて、校庭を突っ切り、先生の部屋まで 連れて行かれてしまった。
学校に行ったら、きっと、「泥棒の日本人」 「あいつが ジムの絵の具を取ったのだ」と 学校中から 言われるだろうとばかり思っていたのに、これは いったい どうしたことなのか・・
僕たちの足音を聞きつけて、ジムがドアをノックする前に、ドアは 内側から開かれ、先生は 僕たちを 部屋の中に招き入れた。
「ジム、あなたはいい子ね。よく 私の言ったことが わかってくれました。
ジムは もう あなたから謝ってもらわなくてもいい、といっていますよ。
二人とも、今から いい友達になればいいのです、 さぁ、握手なさい。」
先生は ニコニコなさって 僕たちを 向かい合わせになさいましたが、僕は どうにも 恥ずかしいのと、謝りもしないのに 許してもらうのも、なんだか自分が勝手に思えて、もじもじしていたら、ジムは 僕の右手を 引っ張って ぎゅっと 握手した。
僕は、ただただ 恥ずかしくて、おそらく 赤くなっていたことと思うが、ジムも先生も うれしそうに笑顔になっていた。
先生は、ふと 僕に向かって おっしゃった。
「昨日のぶどうは おいしかった?」
「ええ!」
「それなら また あげましょうね。」
先生は 窓から身を乗り出して、ぶどうをもぎ取ると、細い銀色のはさみで それを 真ん中から二つに切って分け、ジムと僕とに 下さった。
先生の 白い手の上に乗せられた、こい紫の粒の連なったぶどうの美しさを、私は 今でもはっきりと思い出します。
あのときから 私は すこしいい子になって、はにかむことも 減ったように思います。
もう あの先生とは お会いすることはないと思いますが、秋になって ぶどうを見るたびに、私は あのときの 先生のくださった 濃い紫のぶどうと、それを受けた、大理石のような 先生の白い手を思い出すばかりです。
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