先日、読売新聞の「人生案内」というコラムに、母性に欠けた母が憎くて・・という相談が載っていました。
相談者は40代の主婦で、自分が母親になって子育てを経験して初めて、実は自分の母親はまったく母性が無かったのだ・・と気付いて憎くなった。経済的には恵まれていたけれど、あの時もこの時も本当ならするであろう母親らしいことをしてもらったことが無い。ずぼらで子育てに興味が無かったような母が、年を取った今自分を頼り始めたら昔のことが恨まれて、とても母親を心配する気にもなれなず、そんな自分がとても嫌だ、というもの。
これに対し回答者は、相談者の中の理想の母親像と実際の母親とのギャップにおいて葛藤しているのかもしれない。母親というものは、いついかなるときも慈愛に満ちて完璧に子育てができるはずだ、という現在でも多くの人の中に潜在している女性に対する揺ぎ無い母性、神話的な母性観にとらわれているのでは、と問いかけています。
『母親も一人の人間。長所も欠点もあり、子どもの愛し方も人それぞれ異なるのです。精いっぱい愛しているつもりでも、子どもを傷つけていることもあるでしょう。あなたの理想の母親像は横において、産み育ててくれた人のあるがままの姿を受け入れる努力をしてみませんか。』(原文のまま)
いる?
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そう、親だって最初から親じゃないし、子供を持ってはじめて親になる。それも一人目の子育てなどは、子供と同じだけの時間数でしか親ではないのですから、それを親なんだから親らしくといわれても、何をどうするのがソレに該当するのか、途方に暮れることは結構あると思います。(・・と自分への言い訳もかねてしまいました。)
まぁ、多少の経験や知識が合わさって二人目、三人目になって その経験が生かされていれば、"神話的母性"(らしきもの)に近づく可能性もでてくるかなとは思います・・。 |
もしも冒頭の相談に私が答えるなら「人なんてそんなものと思いましょうよ。」ですね。好きな人だから、好きでいたい人だから、あるいは特別な関わりの人だから、それはないでしょという面を見てしまうと不満(拒否反応)が出てくるのは当然でしょうが、しかしながら、どんな人も全て例外なく(コレは本当)全くの「個人」なので、誰一人こちらや誰かの都合の良いようになどなってくれるわけなど無い。
その人にはその人のバックグラウンドというものがあり、それはたとえ親であってもその子供のバックグラウンドに100%関わっているわけではないし、割合は少なくても他からの影響のほうが強烈に作用しているってことだってあるかもしれないですよね。
ここにいたって言わんとするのは、子供にまつわるあれこれの問題を親のせい(それも母親のせい)で済ませようというのは、そもそも間違っている、ということ。 |
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親だって人間。間違えることなんてしょっちゅうです。まずかったなとおもっても、相手が子供ならわかんないだろうと高をくくって済ませる事だって間々あります。
だけど そのうちの全部がそうなのではなくて、親には不足の親であっても、その時考えられる一杯いっぱいのことをやってきたと言えることだってあったと思うのですね。
人なんだから当たり前のことです。それを親なんだからというのは、ちょっと違うだろう・・と。「親の面もあるその人」なのですから。

2月のお話「鶴の恩返し」
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私は半世紀以上生きていますが、それでも何かにつけて いままで知らなかったことを知ります。物知らずということもありますが、世の中なんて知らないことのほうが知っていることよりもずーっと多い。
人は生涯かけて「人」に仕上がっていくのですから、立場がそうだからという理由で、別のもう一つの面が出来上がっているなんてこと、あるわけ無いじゃないか、と思うのです。
(勿論、きちんとできている人もどこかにおいででしょう。自分はまだあったことはありませんが・・。)
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毎年 季節が良くなって鳥たちの巣作りを目にするたびに思います。居場所を作って卵を産み、餌を与えて育て、生きるために必要なことを教えて分かれる。これが先のものと後のものとの関わりの基本ではないか、と。
人は鳥たちのようにさっさと一人前になどならないので、そこに手を掛けなくてはなりませんが、基本的なことを仕込んだあとは、自分でよいようにしなさいと手放すほうがよりよいのかもしれない。
親だから、子供の幸せを願うからと自分の思うように子供を仕立てようとしたり、親なんだからと子供が親としては不足の部分に文句を言ったりするならば それはお互い余計なお世話といえるでしょう。
自分を含めて、世間の「こうあるべき神話」はDNAレベルでの浸透度。たまらないですねぇ・・。
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