当方の5人の子供たちのうちの一人がもう20年以上、引きこもり続けているということを、これまでにも この毎月のお便りに ちょこっと書きました。
一口に「引きこもり」といっても、そのそれぞれの状態は様々で、殆どがその原因や理由に明快な答えを出せるようではないようです。
娘は、この春にたまたま行きあったクリニックの先生やスタッフの方たちとの相性が、これまでよりはいくらか良かったようで、月に一度程度ではありますが、現在も何とか通院加療を続けられています。
こうさらっと書きますと、こういうことの経験の無い方には、そうなのかくらいのことだろうかとおもいますが、コレまで生きてきた年月の半分以上を社会との隔絶や人への拒絶を続けてきた本人でもさえも、何故そうするのかという理由がまったく分からない上に、回りはもっとワケが分からないという状況にあって、なんとか現状を打開したいと思いつつも、人とのことになるのでどうしても合う合わないにより、なかなか通院するまでにならなかったり、通院してもかなり苦労しながら数回ほどというようであったり・・を繰り返していたので、この度の通院加療がほんの数ヶ月ではありますが、比較的本人がそれほど抵抗を感じずに行けているということは、ずいぶんと大きな前進だと感じています。
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これという問題を感じないで社会にあって仕事を持ったり学校に通ったりしつつ、その中での人とのふれあいやこまごました問題に、割りに苦労なく都度対応できているというのが"普通"というのなら、それが全くできなかったり、できたとしてもかなりの苦痛を感じながらであったり、自分を押し殺してでのことであったりという無理を重ねてのことならば、それが心身の疲弊を呼ぶのは当然のことでしょう。
人がこの、今の社会で難なく生活しようとするとき、もしその人が社会が理解できない部分を持った人だとしたら、その暮らしがかなりしんどいものになるのは目に見えています。
また、この社会の価値観に見合わない生き方をしようとしたり、あるいはそうせざるを得ない場合などは、結局「普通じゃない=一般的ではない=困った奴」とされやすいものです。だけど、それは"一般的に"というところから見た場合であって"その人そのものが"ではないのだということを、我々は時々意識しなくてはならないのではと思います。
蝉の一生は、地下での七年もの生活と地上での七日間ほどの活動とによって成るといいます。生まれてまもなく自分の足で立って動くもの、生まれた日の翌日には姿を消すもの、人の一生よりも長い時を生きるもの・・、この地上には様々な時間を様々に生きるもの達がいますが、私たち「人」もそのうちの一つでしかないのなら、そして、その夫々がそれぞれの時間を持っているのなら、その多くが"一般的"といわれるところに分けられるとしても、そうでない在り方が当然あるのだということを、人であるからこそ人ではないもの達よりも認識され肯定されるべきではならないのではないでしょうか・・。
先日、かつては8匹もいた実家の猫達の最後の一匹になってしまった「あんこ」(♀15歳)が、コレまであまりしたことのない外泊で数日戻らず、皆が心配しているところにくたびれ果てて戻ってきたことがありました。
具合が悪そうだから病院に連れて行くと言い出したのは、件の娘。 |
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彼女は、自分から人のいるところへ出かけることには大変な苦痛を感じるといっていましたが、長いこと家にいる彼女の傍らには常に猫達がいて、時に面倒やいらいらの種になりつつも、食事の世話や老猫の介護や最後を看取るなどして関わってきたので、この最後のあんこをそのままにはしておけないと思ったのか、病院への連絡や身支度などもさっさとし、あんこの診療時には緊張しつつも苦手な"人"の質問にてきぱきと答えたものです。かなりくたびれたというものの、苦痛ということを一つクリアした、それも自分から、ということの成果は大きいと思います。 |
人の一生が80年というのなら、その半分近くを人と関わらずに生きてきた娘のそれは、一般から見ればかなり問題であったり、わがままで無駄なようにも見えましょうが、彼女は彼女の速度で生き、彼女の時々をその時に相応しく生きるのが良いのではと思います。
猫は長く生きると飼い主を喰らうと言われもしますが、それは時に人のようになるとの事のようで、15年生きているあんこが人並み?かもというのなら、それは家族といえども成しえなかった娘の「自発的行動」を促したということかもしれません。
人生には、人が理解できないようなことが沢山あります。その意味や価値が理解できないようなことがいっぱいあります。
わからないことはだめなこと、いけないことなのかどうか。
理解できなくても一旦は引き受けるという姿勢も、人には必要なことと考えます。 |

水中花・・
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