ひつじ小屋の風景 88
外見は人を語る
「神奈川県立神田高校(平塚市)が入試で服装の乱れなどを理由に受験生を不合格にし、渕野辰雄前校長(55)が更迭されたことに対し、学校側の判断を支持する電話やメールが県教委などに相次いだ。」(12月4日付読売新聞)
人は 思っていることが表に出やすい生き物だ。仕事柄もあってメイクアップなどを通してその人を見るということはとても興味深いと思うのだが、持って生まれた顔の造作や表情、無意識のくせなどと違って、本人が意識的に選ぶ服装などはとくに、率直な、あるいはその人の素の思いが表れやすいものでもあるともいえるだろう。
以前、かつての勤め先で社員を募集した時、キャリアもあり技術的にもとても優れていると太鼓判を押された人を紹介されて面接したことがあるが、その人が部屋に入ってきたとたん、彼女に用は無いと即判断した。
何故、面接を受けに来たのか分からないような服装だったのだ。それでも履歴や資格、技術などを見て、たしかに若いのにたいしたものと感心はしたが、その一方、それだけのことが出来てどうして、労働の代償に見合った賃金を受け取るための仕事を求めての面接に、サロペットつきジーンズにTシャツ、素足にスニーカーという、終わったら遊びに行くの!的な格好をしてくるのか不思議だった。
はっきり言って、美容業界だから許されるとか許容範囲が広いなどということは全く無い。どんな仕事でも人様のお相手をする仕事というのは、甘いものではない。状況や場面にあわせて、できるだけ自分の立場に相応しくすること、着飾る必要は全く無いが、人様の顔や体に触れる仕事であれば、清潔で不必要な飾りやアクセサリーなどの無い(少ない)、お相手をするに相応しい服装や態度を心がけるのは、(お支払いいただくということもあるし)至極当然のことである。 |
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恐らく、先の学校長の判断(眉をそっている、スカートが短すぎる、髪を染めている、金髪だったりピアスをしているなどの面接者を不合格とした。)に怒りを覚えるような人は、当方のそういう判断も受け入れがたいだろうが、自分に言わせれば、そこで怒りを覚えるということのほうが理解しがたい。単純な話、自分を受け入れてほしいと思っている相手の前に出るとき、その人が対応に困るような服装や態度をわざわざするものだろうか・・。その学校に入りたいと望むのなら、その学校が受け入れることに躊躇するような格好はしないようにしようとするのは自然なことだと思うのだが、そんなこと面接要綱には書いてなかったという人もいるとのことで、そうなると もうまともに相手をする気にもなれない。
先の校長を更迭した県教委の判断を支持するという教育評論家の尾木直樹氏(61)は「人生を決める入試だからこそ、だまし討ちのようなことは許されない」といったそうだが何がだまし射ちなんだか・・、入試ごときで決まる人生なんて高が知れている。人生はそんなことで簡単に決まりはしない。それが何かの一因になることがあったとしても、だからといってそこに失敗や敗退の原因を求めるのは、どう考えても変だし卑怯だ。
世間をみれば分かる。毎日生活するのに同じくらいの年齢の人間が一つの建物の中に何百といる所なんて、社会生活の中では教育施設などくらいだ。よく考えてみるといい。それは非常に奇妙な不自然なことでもあるということを、我々は時々思い出すべきだ。
人は愚かな生き物でもあるから、何かの思い違いから数がそろえばなにをしても怖くないという思いに陥りやすく、それは世の中を知らなければ知らないほどそうなりやすい。そうして集団でわけの分からないことを面白がってやることを繰り返しながら、加速・膨張の先に非人間的な争いや人を人とも思わない言動がまかり通ってとんでもない結果になるのを、もう何度も見聞きしてきているではないか。一定の価値基準を人に押し付けるのは迷惑千万だが、あまりにもそれに不似合いであれば、それはその人自身を貶めることにもなり、自らをスポイルするような結果を作り出していくことにもなる。 |
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『「問題のある生徒が多く、きめ細かく指導しようとすると仕事は限りなくある。先生方は限界だった。ルールを逸脱した形になったが、苦渋の決断だった」と渕野前校長は打ち明ける。現場の悩みは深い。』
先の学校では、職員が考えられるだけの、問題を起こしやすい生徒たちに対するよかろうとおもわれることをあれこれ模索してやってきて、その上で入試の際の合否の選択に外見、態度などを取り上げたとのことだが、現場を守ろうとすればそうするのも当然だろうと思われるような学校があるということを、生徒の親も含めて どれほどの大人が知っているのだろうか・・。
とても教育現場とはいえないようなところで、荒れた生活を数年過ごしてきた者たちが、その年なりの知識や知恵、教養や教育を適度に持たずに 時が来ればそこを出て、彼らにしてみれば行く方ない茫洋とした「社会に出て行く」ことになっているのだ。それで問題が起こらないほうが不思議ではないか。
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人は人でしかないのだ。一人の人間が負えることには限界がある。一クラス数十人の人間相手に一人で纏め上げようとしても、できないことのほうが多いというそれを、誰もが理解できなければ、学校に子供のしつけまでも要求するようなことはいつまで経ってもなくならないし、これから先、もっととんでもない要求が起こるのは必至であろう。
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更迭された校長先生を学校に戻してほしいという生徒たちの嘆願があるそうだが、現場の意見や要望は、そこにいる者たちの日常を通じての思いによるものとすれば、現場を日常としない者たちの考えよりは重視してよいかと考える。自分により良いと思うものを選ぶとき、現場の子供のほうが分かっているということもあるだろう。
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