Aurea Ovis

きょうは『金羊日』

2011年 5月

1 黄色いバイクの男の子

2 雨を眺めて

3 グーグルマップ ストリートビュー

 

 

1 黄色いバイクの男の子

 気がついたら 5月だった・・

 なんとまぁ 時の流れの速いこと。 なんだか 自分が 置いてけぼりを食ったような、少々 恨めしいような気分になってしまうのだけれど、こんなのも 五月病のうちになるのだろうか・・ なんて。

 あの 東北大震災以来、自分に直接の被害など これっぽっちもなかったと言うのに、なんとなく 気落ちしているようなところがあって、なにか 書き出そうとすると すぐ そこへ行ってしまい、そうなると もう 後が続かなくて・・ と、そんなことのくりかえしをしで、ずるずると 過ごしてしまっていた。

 ・・ で ここは、こういうときだからこそ、あえて その話題は いったん脇に置いといて・・ と しないと、これは 自分にはきついな・・ と 思い、

 おそらく 似たような思いの方が いらっしゃるのではないだろう、春から初夏へとの移行時期ということもあるのだろう、あちこちで 同調的な不安と疲労感のため息を聞いているような このごろである。

 先日、そんな落ち込みが 少々重くなり、また 所用ももあったので、表に出て 少し あちこちぶらぶらしながら、いつものスーパーまで 買い物に行こうと 出かけた。

 道に添って流れる川には かもの親子が なかよく餌をつつき、通りに面した家々の庭には、あふれんばかりの季節の花々が よく手入れされて さらに咲き誇っていて、良い香りに 思わずにっこりし、日向で ぬくぬくと寝そべっている ネコさんたちに 軽く挨拶をしながら、すれ違う犬さんたちとアイコンタクトをとって・・、もう すっかり 新しい 若い緑葉でおおわれた木々を見上げつつ、心地良い風に吹かれているうちに、ようやく 気分が落ち着いてくるのを 感じていた。

 そのスーパーマーケットは、実家に行く時に 買い物していくところで、駐車場の脇の駐輪場には タコ氏がいつも 自転車を留め置くのだが、その日のかえり、ちょっと 面白いことがあった。

 買い物を済ませて出てくると、ちょうど 入れ違いに マイバッグをもった 男の人が 後を振り返りながら ゆっくり 入り口に向かって歩いてきた。
  その振り返った先には、トミカの黄色いプラスチックバイクに乗った 3つか4つになるかな・・ くらいの男の子が 一生懸命 バイクを足でこいでいた。

 おとうさんが 振り返って 入り口に向かって曲がるころ、黄色いバイクの男の子は、勢いよく地面を蹴って、ぐぃーーん!と 少し傾斜のついた 駐車場を 駐輪場に向かって走ったとおもったら、バナナシュートのような きれいなカーブを描いて キキー! っというように、ピタ っと 見事に 目指す場所に バイクを止めたのだ。

 そして おもむろにバイクを降りると、いかにも やったぜ!風の顔をして、お父さんの方に目を向けた。

 すると おとうさん、親指をうえに立てたグーを 小さな息子に向けて 差し出し、にっこり笑って おいでおいでをした。

 さっきまで どうだ 凄いだろう風の顔をしていた男の子は、突然 満面の笑みになり、いかにも甘えた顔つきで だーっと お父さんの方に 走りより、二人は 仲良く手をつないで スーパーの中に入っていった。

 その様子を見ていた自分は、まったく初めての二人だったにもかかわらず、隣の○○さんのパパと坊や・・みたいな そんな気持ちになって、マスクの中で 一人で 笑ってしまった。

 なんとも かわいらしい親子ではないか。一見 普通の、でも ちょっといかついイメージのお父さんが 小さな息子を どんな風におもっているのか、その小さな息子は お父さんをどうおもっているのか、二人のかかわりが、ひと言の言葉も無いのに、そんな ほんの2〜3分のことで 見て取れたような気がして、なんだか とても うれしくて 気分良くなってしまった。

 人と暮らすって こういうことなんだな・・、とおもう。
とくに 誰が なにを ということもなく、そして 誰のために なにを というのでもなく、ひとりひとりが 気づかぬうちに きっと 誰かのなぐさめや 安心、喜びや うれしさになっていることが、日々の何気ない情景の中に ちらちらと あるのだろうと思う。

 たとえば かもの親子かもしれない、たとえば 綺麗な花々かもしれない、また あるいは 新緑のまぶしさや 心地良い風かもしれないし、そして ふと見かけた たのしげな親子の行き来を垣間見ることかもしれない。

 そんなことを通じて、わたしたちは ちいさく喜び、安心し、面白がって、落ち込みにはまりそうな時や日を、なんとか しのいでいるのかもしれない。

 だから、誰ひとり、いなくていい人 とか、いてもしょうがない人 ってのは ないんだろう、だれでもが 必ず いつかどこかで 誰かの笑顔の元になっていたり、しみじみした思いへ誘ったり、感謝の気持ちをあらためて持たせてくれたり・・ きっと そうなんだろう と おもう。

 一人きりで暮らしていたら、ほんとに そんなこと ちっとも考えないし おもいもしないだろう。
 ちいさな場所でしかないが、とくに知っていなくても 人と行き来する というのは、いいものだな・・ と 思えたことで、少々 落ち込みに入りつつあった自分が、いつの間にか 何かを吹っ切っていたような思いになっていることに気付いた、そんな 楽しい出来事だった。

 

 

 

2 雨を眺めて

 天気予報は また 当らないな・・ と 思っていたのに、ちょっと 曇ってきた と おもったら、突然 静かに さーさーと 雨が降り始めました。

 風もなく、だから まっすぐなこの雨を ただ ぼうっとながめていました。 

 これまでの暮らしが長ければ長いほど きっと、こんなときに あれこれ かつてのことを 思い出したりするのでしょうけれど、大体が それほど たのしかったり 愉快だったりするようなことではなく・・、なんでいまさら と おもうような ことのほうが 思い出されるような・・ 気がします。

 ある人が、昔のことが あれこれ思い出されて仕方の無いときは、気持ちが後ろ向きになっているのだから、それをほうっておくと どんどん 落ち込んでいく、だから、そんな風になると 一生懸命 とくにそれが必要でもないようなことを あれこれ考えては 必至になっってやるのだ と言っていたことがありました。

 ・・まぁ。。 わかります。だれでも きっと そんな風になるし、そんなことも するのかもしれません。

 年齢的なものとか、もともとも ものの考え方やとらえ方の傾向 というものも 有るのだろうと思いますが、こと 自分に関して言えば、そんな風に 過ぎたことの取り返しのつかないあれこれを思い出すときは、しばらく それを じっと 思い返すようにすることがあります。

 別に 自虐的なんかじゃないんですけれど、どうも 自分的には そういうことを思い出した ということの方が、ちょっと問題で・・

 つまり、自分で納得したかたちで『それ』が終わってない、と思ってしまうので、かつてのことを思い出して、またぞろ 嫌な思いや 恥ずかしさや悔しさ 惨めさをなぞるように味わったとしても、なにしろ それは 自分の中では未解決、・・ ちょっとちがうかな・・、いまだに 続いているのは、しっかり対峙してこなかったから 時として なぞり返すのだ・・などと、そんな風に 思えるのです。

 そんなの、しょっちゅうやってるわけには行かないし、それこそ 何か 思いもかけないようなときに、なんだかをきっかけに ふうっと 思い出したりするのですが、そのとき 考えられる余裕がなくても、あとで こうして 雨が降ったりして 周りが静かで・・、特に何をするでもないような時などは とくに、馬鹿な自分のしたことで 嫌な思いをしたであろう人たちの事などが、思われてなりません。

 自分がはずかしかったり 嫌だったり、みじめだったり・・ なんていうのは、そんなのは 過ぎてしまったことで、知っている人がいたとしても、そのとき 自分が感じた思いまでは、その人達には わかりません。・・ と 思います。

 でも、言ってしまった、やってしまった ということについては、時が過ぎて そんなことを 憶えている人が 身近にいなくなってしまっても、やっぱり 思い出すたびに、申し訳なかった、悪かった、すまなかった という気持ちになって、本当に だれもそばにいないというのに、ひとりで 恥ずかしさにうつむくようです。

 先の人のいうようであれば、心が弱っていて 後ろ向きになっているので、そんな、いつもは忘れてしまっていることを 突然 思い出しては どんどん 落ち込んでいくのでしょうけれど、ここは、こんな自分ですから、そして もう いい大人ですから、そのとき 傷付けた人達の心を いまさら どうすることもできないのなら、せめて 今、自分が その くだらない自分をじっくり眺めて、とことん 嫌な自分に付き合い、散々な思いになってしまおう・・ と 思うのです。

 ・・ で、さっきまで そんなことを やってました。

 卑怯者の自分、意地の悪い自分、なんでそれほど?と おもうような 言葉を投げつけて 人を傷付けている自分、どうして そんなことをしたのかと思うようなことをしている自分を、じっと 見つめていました。

 結局、時はすぎて もう どんなに心からのごめんなさいであっても 嘘っぽくなってしまうほどになってようやく、自分は 自分が許せていないのだ ということに 気づきます。

 だれが ゆるしてくれても、そんなことをした自分は、やっぱり どんなことをしても 許せない。

 それに 気づいてしまっていました。

 釈迦力になって 掃除をしたり、床や窓を磨いたり、片付け物に精出したとしても、『それ』は 片付くことが無い。
 当然です、過去は 消しようが無いのですから。

 後ろ向きなんかじゃないんですね、積極的に『それ』に立ち向かわない限り、つまりは ずるずると いつまでも 自分の後ろにくっついて離れない『それ』に ずーっと ずーっと 捕えられているって事なのかもしれません。

 しかし、向き合って すっかり 何かが清算されて、そのようなことが 解消されるかといったら、これも また そんなことは無いのは、重々 承知です。

 さて・・ では どうしたものか・・ ですよね。

 つまりは 辛いのだ ということを 自覚し、そして 過去は どうにもならないし、してしまったこと 起こったこともまた、変えようが無いことを 認識する
 そして、そういうものに いまだに捕らわれていて、なにかにつけて それを 苦しく思い出し、もう どうしようもないのだ ということを、受け入れるまでしか、自分には できないと知ること・・、それが、過去に対して 人ができることなんだろうな・・ などと、思いました。

 

 朝 目覚めて、今日は なにをしようか、どんな日になるだろうか と 思っているときには、自分が あとで ひどいことをいったりやったりするかもしれない なんて これっぽっちも 思わないはずです、だれでも・・ 多分。

 できれば よい行いをし、人に親切にして・・と 思いましょう、それなのに、思いがけない言葉を吐いたり、人を傷つけたり、ちょっとした悪意のある行動をしてしまったり・・、

 人と言うのは、どうにも しょうのない生き物なのかもしれません。

 だからこそ、自分を許してくれる『なにか』が 必要になるんでしょうね。
そして 許された自分を、今度は 自分が許してやらないと・・ ってことなんでしょう。

 切ないほど 苦しいほど、なさけない自分で 悲しく思いますが、でも 自分をゆるす『なにか』があることは、なんとなく わかっていますので、自分も 難しいけれど、自分を ゆるしてやらなければ ・・と 思うのです。

 そして そうしているうちに、自分が 後ろに引きずっているものを 少しずつ、切り離していくのだろうな・・ と、そんなことを さっき、雨の降るのを眺めながら 考えていました。

 夕暮れ時の雨は 煙るようで、蒸し暑くなる この先の日々が思われます。

 

 人を許すよりも 何を許すよりも、ひょっとしたら 自分が自分を許すことって、すごく 難しいのかもしれない・・ と 思い至った 雨の日でした。

 

 

 

3 グーグルマップ ストリートビュー

 先日、タコ氏が いきなり すっとんきょうな声を上げた。

どうせまた ろくでもないことを・・ と、見てみて というのを う〜ん?と 生返事で返したら、ほら といって パソコンを こっちに向け・・

 画面に映っていたのは・・ あれ・・? これはー・・???

 わかんない 自分の家が? と タコ氏。

 ・・? 自分の 家??  あー! 実家だー!実家じゃないの。

 グーグルマップで 当方の実家の住所を検索したタコ氏が 素っ頓狂な声を上げ、自分も あー! なんて 子供みたいな声をあげてしまったのには わけがある。

 ストリートビューで見てみたら、なんで ここまで?ってくらいの『実家そのまま』が ふっつうに 出てきたからだ。

 しかしながら、当然 そんなこと(実家の道から見た写真を グーグルマップに掲載します なんてこと)は 当方のだれも 承諾していないのは もちろん、ひと言の 撮りますよ ってなことだって、誰一人、言われてはいない。

 じっくりみれば 笑えるくらい 当然、今の実家そのままで・・、見方の角度を変えると 隣家の車が止まっているのも、いつもの場所に バイクが止められているのもうつっている・・ 
おまけに・・ これには 笑ってしまったが、父まで いたのだ。

 父が いつもの庭仕事用の帽子をかぶって、道に面したところの草取りをしているのまでもが はっきりと 写っていて、それと わかるのだ・・!

 そこにいたるや、 なんか やだ・・ 
そして じわじわと思えてのは  こわーい・・。

 実際、これから行く先の住所がわかれば、おそらく ほとんどの人が 地図検索をして 様子や行きかたの目途を つけようとするのではないだろうか。そして 自分も また 然り。

 なので、地図検索の便利さや手軽さには 何かの時には 助けられているのだけれど、しかしながら。。 本当に 自分の実家をたまさか 検索にかけてみてみたパソコンの画面の映像やその周辺(父付きの・・)をみたとたん、いやー・・ これは。。 と 思ってしまった。

 なんでまた そこまで という。。 なんか そんな感じがして。

 たまたまのことで、それも 苦笑ものなのだが、写真の父の身体は 半分 地面と融合しているような、そんな 妙な写真だったし・・

 

 ためしに、息子のところを検索したところ、まだ 彼の住む場所のストリートビューは できていないようで 普通に場所が示されただけだったが、いくつか 知人友人の住所を検索してみれば、あらあら・・ と おもうような そんな 写真もあったりして、いやいや そんなことを する暇もなさそうな 忙しい人達ばかりだから、知らないだろうとは思うものの、なんだか あ、見ちゃった、ごめんね なんて 言いそうな気持ちになったりした。

 しかし・・ ここまでするのは 単なるサービスだけなのか???

 人生半世紀以上も 生きてくると なかなか 疑い深くなってしまっていて、ふと こんなものを見てしまうと、なにか ある種のきな臭さを感じてしまったりもする。

 でも、そういうことは この世の中 いくらもある。親切そうにして、実は ・・ などということ、いくらもあるのだもの。

 はてさて、今年 91になる父に いってみようか、なんというだろう??
想像すると おかしくなるが、一方では やはり どこかで うっすら 怖ろしげな気も している。

 

 

前ページ  次ページ

 



お問い合わせはこちら!