その日は、よく晴れて、風はあったものの、この季節には まだ早いような日差しの強さでした。
実家に行くときに寄るスーパーの近くの坂道をおりながら、ふと、白いリュックをしょって杖をついた、白髪の年配の女性が、歩道の端の日の照りつける中に じっと立っているのに気づきました。
当方が 近づいていく間に、その方のそばを 年配の男女が ちらと横目でみながら 通り過ぎ、犬を連れた中年の男性が するりと 通り抜け、配達の車が ゆっくりと坂道を上がり、30代くらいの女性も 何回か その方のほうを見やりながら、過ぎていきました。
その方は、白い木綿の帽子を片手に持ったまま、それらの人々の視線を知ってか知らずか、日差しをもろにあびて 立ち尽くしたままでしたので、こちらから 近づいて、日傘をかたむけ「どちらまでいかれますか?」と たずねました。
「そこのスーパーまでなんですけどね。」
「あ、じゃあ 私も今行くところなので、ご一緒しましょうか。」
「ええ、でも、誰かがいると 頼っちゃうからね。なるべく そうしないように。」
「ああ、そうですか。それでは 少し 先に行きますね。帽子は かぶらなくて大丈夫ですか?」
「これね、今日は 風があるから とんでっちゃうでしょ。そうすると 取りに行かなくちゃならないし、近くの人が かわいそうだから。」
「ああ、わかりました。それじゃ すこしずつ 先に行きますね。」
そんなやり取りがあった後、自分のとった行動が 良かったかどうかと思いつつ、こちらは そろそろと 振り返りながら 先に行ったのですが、ほんの数メートル先の角を曲がるときにも、まだ その方の姿は見えないままでした。
こちらにも時間の制限があってので、こまったな、と おもいつつも、では さっさと買い物を済ませて 様子を見に行こう、ということにして、スーパーに入りました。
その日は たいした買い物もなかったので、それほどの時間をかけずに、入用なものだけ持って 出入り口に差し掛かったところ、ちょうど その方が ついたところでした。
「ああ!よかった。大丈夫でした?」
「はい、ありがとうございました。」
「気をつけて お帰りくださいね。」
「ええ。」 ・・と ちょっと不安げに おっしゃるのを見ていた、別の ご年配の女性が こちらに話しかけてこられました。
「ころばなきゃいいけどねー。」
「そうですね。」
「あの人、ときどき くるんだけど、帰りは タクシーなのよね。でさ、家がどこだかって いえないんじゃない?タクシーに乗って あちこち まわられちゃって、なんか 余計にお金をとられちゃったってのが 二度くらい あったみたいよ。」
「ああ・・ そうなんですかぁ。お気の毒ですねぇ。」
「」ねぇ、かわいそうに。だれか 一緒の若い人、いないのかしらねー。」
そこまで話したとき、其方の方の少しお若いお身内の方がいらしたので、それじゃ といってあちらは車に、こちらは バス停に向かって 歩き出しました。
だいじょうぶかなー・・と 思いながらも、自分では どうすることもできず・・
ただただ きにするばかりでした。
歩き方も ずいぶんと 小幅で、杖を頼りに おぼつかな気なご様子でしたが、それでも 歩いて 買い物にこられる距離でしょうから、その距離に、先の話が本当なら、いったい どれほど加算された連れ帰り方をされたのだろう。。 と、腹立たしく思いながら バスに乗っていました。
まぁ タクシー側としては、はっきりしないから いうままに乗せたんだ ということになるかもしれませんが、当節、お客様の様子を見て、先に住所を伺うとか、スーパーなら 届け物もするかもしれないですから、行き方を確認するとか、なにか 方法があったのでは。。と 思います。
小ずるいこと というのは、しようとおもえば いくらでも できるのが人間。
すごく いけないことじゃないから、くらいにしか 思わないのでしょうけれど、そんなこと、わざわざ 弱い立場の人に、することではないだろう と思うのは、自分だけではないかと 思います。
弱い立場の人たちが その弱さのままで 当たり前に暮らせるようでなくちゃ ね、と よく 娘たちともはなすのですが、弱さ というものが、肉体的なものだけに限らず、社会の中での立場的に、弱者といわれるところにいる人たちにも、ひろく 気遣われて良いはずだ と 思うのです。
そうでなかったら、その社会は、健康であって当たり前、これこれができて当然という感覚が まかり通ることでしょうから、それは、突き詰めていけば、女であれば、子供を産んで当然、男なら、大人なら、普通の社会人なら・・云々の世界だけになっていくのは 目に見えています。
その、それぞれの 尺度 にあわない人たちは、では どうせよというのでしょう?
なんでも 普通にある人たちから、そのうち 面倒くさい厄介者扱いされていくようにもなりましょう。
そのあたりのことを、もしも それが自分だったら、と 考えることが、すこし 柔軟な考えの社会を作り出していくことを可能にするのではないかな と 考えています。
明日、何かの拍子に 体が思うように動かせなるかもしれない。思っても見なかった大変なことが起こって、心を病んでしまうかもしれない。
そんなことばかりでなくても、振り向いたとたん、何かにぶつかって、しばらく 自由の利かない状態になる事だってありえます。
先の 白いリュックの杖をついた方を思うとき、それが そのうち自分のことにならないとは、だれにもいえないことを 思えば、つまり 彼女は自分かもしれない、と 考えることは、相手の立場や状況への 少しの配慮を促すことにつながるはずでは・・と、今、そんなことを 考えているところです。
あの方が、これから、すこしでも 無事にお過ごしになられますよう、祈ります。
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