Aurea Ovis

きょうは『金羊日』

2010年 6

1 ロバとメルヘン

2 それぞれの平和

 

 

1 ロバとメルヘン

 土曜日の夕方、駅前は 人で かなり混雑していました。

 自分も その中の一人として、人の流れのままに 駅に向かっていたのですが、ふと 何かの気配を感じて 流れをはずれて そこに 立ち止まりました。

 そして、何の気なしに 左を見ると そこに 普段 見慣れぬものが・・

 ????? あれは・・?

 すぐに分りましたよー。 あれは ロバさん だったのです。

 逗子の、駅前に、ロバさんが、いました。

 ロバ・・ しってます? ロバです、ロバですよ。

 柔らかい耳の長い グレーの お腹の白い ひづめのある ロバさん・・
馬みたいな形だけど 馬じゃない ロバさん

 

 駅前のマックのまえには 何の木だかを囲って 丸いベンチがあるのですが、そのそばに 背の高いおにーさんといっしょに ロバさんが 静かに、いました・・。

 おっきいなー・・ というのが 第一印象。想像したよりも 大きい。
(ちなみに 遠藤は 本物の 生きてるロバさんを見たのは、多分 これが初めてだと思います。 馬は 幾らも 見たこと あるのですけれどねー・・)

 おにーさんは 花屋さんなのでしょうか・・、ロバさんは 背中から 両脇にいくつか バケツをさげていて、それぞれの バケツには いろんな花が入っていました。

 

 さて、こうなると もちろん そばに行きたい、触りたい、話したい・・のが 遠藤。
・・ なのですが、どういうわけか その時は そばにも行かず、ですから さわりもせず 話もしなかったのです。

 今に至るまで ほんっとに 後悔してます。あれが あれっきりだとしたら  ものすごい 後悔度です。そのくらい 後悔してます。そばに行けばよかった、触ればよかった 話しかければよかった・・ と。

 で、どうして そうしなかったのか というのを 思い出しながら考えました。

 多分 雰囲気です。 その場の情景が そういうことをしないほうを選ばせたんだろう・・なんて 思っています。

 どういうことかと言いますと、えーっとですねー・・、

 沢山人がいました。わいわいがやがや ざわざわと、いっぱい 人がいました。
土曜日の夕方で 一日天気もよかったので、海からの帰りの人たちなどもいて、いつもよりも ざわついていました。
 そして、信号待ちの人は 本の少しの間に 列ではなくて 塊のようになって そこに集まり溜まっていました。

 でも ロバさんに気付いた人は それほどいなかったように思います。

 流れは 全然 ロバさんと関係なく 普通に流れ、普通にとどまり また散って・・を 繰り返していました。

 何人かの声が あれ?ロバじゃない? あ、ロバだー。 ロバがいるよ、何でロバなんだ?なんて 言うのが聞こえましたけれど、だからといって 例えば 写真を撮るとか、そばに行くとか 花を買うとか 立ち止まって ロバを見るとか・・そういうの 全然 なかったのです。

 遠藤は 信号待ちの間 ずーっと ロバさんを見ていました。
それこそ 穴の開くほど 見ていました。でも 近づかないでいました。

 なんとなく そこだけが ほんとに パステルカラーのメルヘンに思えて。

 なんていうんでしょうねー・・、そこの、ロバさんとおにーさんと花が 木の下にいる という、それだけで なんか まわりと世界が違っちゃってるように 見えたのです。

 背の高いおにーさんは 人の流れを 遠くのものを見るかのように 両足を少し開いて 両手のこぶしを腰にあて、じっと ロバさんのそばに立っていました。
 で ロバさんは、そのおにーさんのそばで 下においてあるなにかを もしゃもしゃと 食べ続けていました。

 ロバさんの背中の花たちが ロバさんが もしゃもしゃするたびに ゆらゆらして、ついでに ちょっと 吹いてくる風にも うなずいたりして・・ なんか そこには 横断歩道の合図の曲もなければ、人びとのせわしい足音や話し声、車のクラクションや電車のアナウンスなども なんにもなくて、まるで 絵本の中のイラストのように、ただ そこに あったのです。

 で、遠藤は そういう雰囲気、その世界に あえて 近づかなかった・・んですね。
それは 多分、今から思うと(ですけれど)だれか一人がそばに行って 当たり前のように ロバさんをなでたり 話しかけたり 写真をとったりしたら、そこから おにーさんとロバさんの世界はほころんで、人がなだれ込んでいくような そんな気がしたんですね。

 そして そのほころびのとっかかりには 自分は なりたくなかった・・んです。

 ただ それだけのことで・・、この 書いてきたこと 全部が おそらく 完全に すっかり 遠藤の勝手な思い込みだろうということは 分ってるんですけど、
 つまり・・、その世界がだれかをきっかけとして ほころぶなんてこと ありっこない、そうだとしたら、おにーさんは お花を売るという お仕事が出来ないでいるままなんだ、ってことは 十分 分ってるんですよ・・
 それでもね、それでも どういうわけか そう思ってしまった。

 で、ただ 信号待ちの間だけ じーっと 穴の開くほど ロバさんを見つめていた、に留めたというわけです。

 どこまで メルヘンなんだ 自分! と (人より先に)突っ込みたい気分ですが、
だって ロバとメルヘンなんて 嵌りすぎでしょう・・ 笑っちゃうくらいに。

 でもねー、そういうの 突然 町中で 遭遇してみれば 分ると思いますよー。多分。。

  

 余談ですが・・ おもってしまいました。

 あのロバさん、あのおにーさんの家で 飼われてるのかナー・・
ロバ小屋があるのかなー、ロバの部屋ってのがあるのかなー、一緒に住んでるのかなー・・
毎日 お食事 どうしてるのかなー・・、お風呂 入ってるのかなー・・

 ロバさん、人間いっぱいと 犬とか猫とか 鳥とかしかいないところで たった一人(?)で だいじょうぶなのかなー・・  などなど。

 「寂しいかもしれない」 と おもったら・・

 やっぱり こんど もしまたあったら、今度こそ 声を掛けてみよう、そばに行って 触って 話しかけてみよう、そして お花を買って、またね と いおう と 思いました。

 (あ これ、全部 ロバさんに ですから、おにーさんに ではありませんから。)

 

 ・・ しかし、いつから 逗子の駅前に ロバさんが いることになったんだろう???

 でも 楽しみが増えて 結局 うれしい遠藤です。

 

 

2 それぞれの平和

 来週は 雨の一週間 なんていう予報を聞いて、今のうちに と せっせと洗った汚れ物を すっかり干し終えて、ハーブを積んでいるとき、一軒先の家のおばあちゃんが 誰かと話している声が聞こえてきました。

 ほんとは 今が綺麗な時なんだけどねー。雨が降らないから まだまだ きれいにならないんだよね。雨が降れば きれいになるよ。

 それを耳にしたとき、なるほどねー・・ と おもいました。

 なにが といわれても、説明しにくいのですが、雨が降らないから(足りないから)、紫陽花が綺麗に咲かない。雨が降れば きれいになる・・ という そういう図式が おばあちゃんの頭の中には ずっとずっと あるんだなぁ・・ ということ。

 そんなこと、あたりまえだよ。ずっとまえから いつも毎年 そうじゃないか と言わんばかりの 当然さ。その 言い方に なんだか、、なんというのでしょうねー・・、そうなんだ、と すとんと腑に落ちたような・・、率直に 気持ちの中に その事情(・・?)というものが 入ってきたような そんな気になったのですね。

 紫陽花は 雨が降って きれいになる。

 これは おばあちゃんの中では ずーっと在ること なのですね。
それは おばあちゃんが 子供の頃から ずっとそうで、雨が降れば 紫陽花がきれいになるというのは 誰に教わったというのではなくても、ちゃんと おばあちゃんが 見てきた時々に 証明されて分っていることなのですね。

 働き者のおばあちゃんは、朝早くから 庭に出て、ちょこちょこと 入用なものを つまんだり、物干し竿をふいて、お嫁さんが洗濯物を干すのをてつだったりしています。

 近所の きっと ずーっと仲良しの人たちとの挨拶や 昨日の頂き物は おいしかった、ご馳走様 とか、この間は おせわになっちゃって わるかったね、ありがとう などという声を聞きながら、 朝の一時に ふと いいな・・と おもうのです。

 タコ氏に それを言うと、平和だね と 言いました。

 実家の斜め向いの昔からの農家にも おばあちゃんが います。

 先日 実家に行くとき、珍しく そのおばあちゃんが 低い生垣に腰掛けて 体をよじりながら なにか 土いじりをしていました。

 ずいぶん以前に 病気で 右半身が思うように動かせないでいると聞いていたので、久しぶりだし、しばらく 声を聞くことも無かったこともあって、近づいて 挨拶しました。

 思いがけず 滑らかな話し振りに、こんなになっちゃって と 嘆くおばあちゃんに、いえいえ まったく普通にお話聴けますよ、と 話したりしていたのですが、何をしているのかと聞けば、生垣に添って植えられた 水仙の球根が混んでしまって、そうなると 花が咲かなくなるので、今 掘り返して 間を空けて 植えなおそうとしているのだ と。

 コレくらいしか出来なくなっちゃって といって、向こうのほうで いまだに元気に 畑の水撒きをしているご主人をチラッと見やりながら、球根についた土を まだ 思う様動かせる左の手で ほろほろと ほぐしていました。

 その土に慣れ親しんだ人だけができる 物の扱いや手の動きに、やはり ふと いいな・・と 思ったのです。 

 おばあちゃんは ずーっと こうやって お嫁に来た時から 長いこと 毎日毎日、家事育児に加えて 畑のことや田んぼのこと、野菜や花のあれこれを その手で 世話してきたのですよね。

 しばらく お日様を見ることのなかった日の続いた後の、日差しを嬉しく感じるお昼前、おじーちゃんと おばあちゃんは、だまって 夫々の土の事を こなしていたのでした。

  沢山の いろんなことがあって、ほんとに 色々なことが沢山あって・・、でも いま そうやって 自分のその時できることを これまでの習慣のようにできている という そのことが、なにか 平和を感じさせるように おもいました。

 この 平和 は、その人が 長い時をかけて すこしずつ得てきたものなのかもしれません。

 日常の平和って、単調(にみえる)なことの繰り返しや当たり前に思えている日々の営みのからのエッセンスで 作られているように 感じます。

 そうやって 培ってきたそれぞれの平和を 二人のおばあちゃんは ちゃんと 持っているんだな・・と おもったら、自分を含む だれでもが、ひとりひとりの毎日を ちゃんと ちゃんと 生きることによって、きっと 同じように、自分の日々からの ちいさな時の贈り物を重ねた自分の平和とともに 生きるようになるのだろうな・・と 思いました。

 

 平和って すごく 抽象的で、とても 憧れ、大切に思うけれど、実は 大分 曖昧で 分りにくいようでもあると思うのですが、二人のおばあちゃんたちの、それぞれの 時の平和は すごく 分りやすい。(自分にとって ではありますが・・)

 そういう 日常の平和が、夫々の人のそれが、いっぱい 沢山 集まって・・、そうして すべての人の平和の基になったりするんじゃないのかな ・・ と いま、漠然と 感じているところです。

 

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