会社勤めをしなくなってから、ある時までは かなり その名残りのように
せっせと と 形容されるような行動パターンをとっていたことがありました。
立ち上げたばかりの仕事では そんなにお客様があるわけでもないのに
やっぱり 自分なりに定時とした時間よりも早めに仕事場に着いて・・と
そんな風に かなりの期間を 以前と同じリズムを崩さないように
なるべく だれないように と 意識していた時代がありました。
でも ひとりでやっているわけですから、結局 自分の体調とか回りの都合とかによって
気が付いたときには 変化しきっていて、
そういうものなのだな・・と 思ってからは 特に 日時に限りをつけなくなりました。
そうすると、見えてくるもの、聞こえてくるものが ソレまでとは 変ってきたのですね。
まず 季節を日々知るようになり、そのちょっとした兆しや昨日と違うことなどに
その時々のメッセージを感じ取るようになり・・
一日のうちでも 太陽や雲、風や空気の微細な変動に 敏感になって・・。
人についても、それまで そういう人と 思っていたところに
ふと なにか今までと違うものを感じて、
あ もしかしたら こんな風に言いたいのかも、そんな部分もある人なのかも などと
家族も含めたまわりの人たちをの見方が変ってきたようにもなりました。
今まで いつもそばにありながら、いつも 目で見ていながら、
心を持って 見つめることをしてこなかった存在たちを
改めて気づき認めることは、かなり・・いえ 大変大きく自分の内側の変化をもたらし、
自分で思い込んでいたあれこれを さっぱりと取り去るような感じもありました。
そうやって 心が軽くなると、そんな状態で見知ったものへの関心度が 今までと違ってきて
同時に それまでよりも ずっと親しみがわいてきたり、
また その時の対象に意識を集中しているようになりました。
伊藤師は 聞くことのとても上手な方でした。
急ぐことの一つに、「話すこと」があると思います。
自分がそうなので、特に思うのですが、
相手にわかりやすく説明しようとしてるときでも 一方的に話し続けているわけで
これは、相手が ゆっくり時間をかけて理解しようとする場合などは
どんどん 言葉数が増えて、語調もせかすようになったりして、
手助けしているようで かえって混乱させてしまったり・・
気付けば 自分も言いたいことから 離れてしまって
結局 なにをしたかったのか、ただ くたびれたり、ああ またやっちゃった・・と 後悔したり
相手の困ったような えーっと それで? みたいな顔を見ながら
話しすぎること、急ぐことのむなしさを 苦い思いでかみ締めることも しばしばでした。
時々 伊藤師の話し方を 思い出します。
そばに座って 楽しい話も おかしな話も 深刻な話も 難しくて分からない話も
なんども 色々に聞きましたが、いつも その声は 特に変化することはなかったと記憶しています。
淡々と、しずかに・・。勿論 笑ったり 時には少し大きな声も出されましたが
それでも イメージとしては いつも!静かに、本当に 淡々と 話してくださったと覚えているのです。
そして それが とても聞きやすかった。
本を編めるくらいに 話を聞いて覚えていれば また それも良いのでしょうけれど
人というものは そんな風には 人の話は聞かないほうが 一般的じゃないでしょうか。
人の話を聞く というのは、時には その人の意思を受け入れる ということでもあると思います。
そうやって 継がれていく思いは、とても貴重なものばかりでしょう。
ですが たとえ それをそのように話されても 聞く側が 急いでいて走っていれば
あっというまに その声も通り過ぎてしまいます。
気にはなっても 立ち止まらなければ その声は 耳には愚か 心にも届きはしません。
だから・・ 話を聞くときは 隣に座って ただ、ただ 耳を傾けるのが 良いと思うのです。
そうすることで、その人の思いも 伝わりやすくなるはずです。
そうすることで、その人のその時の心が 見えやすくなると思います。
そうすることで、その人も 自分が何をどう感じ、どうしようとしているのか
なにを助けてほしいのか などなど・・ いろいろなことが 分かってくると思います。
「時」には 流れがあり、そして 「時」は 絶えず流れています。
でも 今の自分になって 思うんですよ、
「時」って 自分で流れを決められるような気がする・・って。
ゆっくり 丁寧に生きようとすれば、それで 時の流れは 緩やかになっていく と
今 実感しています。
自分以外の 沢山のもろもろの声に耳傾けられるように、
聞いて知り、そのために できることを行えるように、
先の文を読みながら、自分の「時」を 静かに 緩やかにしよう と考えました。
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