本の中のこのページには 状況説明にも当たる小さな文字で
以下の文が上方にあり、
本文ともいえる 通常の文字で書かれたものは 「」の部分のみで
それは ページの右側 少し下のほうに 書いてあるだけです。
(この本の書き方についての参照)
(以下、小さな文字での文)
かなわぬ恋に悩み苦しんでいたときに
伊藤神父に打ち明けに行った人がいる。
彼女は、学生の頃から神父は自分たち二人を知っていたから、
人肌縫いで下さるかも、奇跡が起こるかも、と思いながら伊藤神父を訪ねた。
しかし、期待していた軌跡は起こらなかった。
その時伊藤神父は、助言や励ましの言葉をかけてくれたのだと思うけれども、
彼女は たった一つの言以外 何も覚えていないという。
(そして、通常の文字での文)
「つらくても、受け入れなければならないときがあります。」
これは
起こったことを そのように受け止める、受け入れるということではないかな・・と
遠藤は 考えました。
かつての日本人の・・ とくに 女性たちの中には
”そのように生きた人たち”が 沢山 あったように思います。
今のような世の中に生きている人たちには なかなか理解しがたいでしょうけれど、
特に 大正以前などの、
あらゆることにおいて 権限とか理解とかが得られにくかった時代には
たとえば 顔もしらずに結婚するとか、
その境遇に自分を添わせて生きる なんてことは
たとえ、なんとしても理不尽だと思ったとしても、
そういうもの として そのように生きざるを得ない ということ、あったと聞きます。
ごく まれに そんなものをかなぐり捨てて 自分を生きた人たちも いましたが、
恐らく 名もない沢山の人たちー女性たちには そうしたことは
なかなか
できにくいときだったように 読み聞くところです。
その人たちと この文の中の伊藤師に相談しに行った女性を一緒には出来ませんが、
ある意味、どうしようもないこと、
どんなことをしたところで そうなってしまうことについて・・
それがそうと決まるときに、どのように それを受け止めるか によって
物事と ソレを経験する人の”値打ち”(重み)が 変わってくるように思えます。
抗いようもなく襲いかかることや 意味も理由も分からずに望まぬようになっていくこと、
つまり それこそ理不尽だ、理解できない、なんで自分が・・
というようなことがあったとき、
出来るだけのことをしても 何も変わらないとき、変えることが出来なかったとき・・
悲しみ、嘆き、落ち込んで、あちこちにあたったり、おおさわぎしたり、なんてのは
だれにでも出来ることですが、それをして では 解決するかといえば
何も変わらないわけで・・、
あとは 悪態をつきつつ 惨めに落ち込んでいくばかりではないでしょうか。
起こった出来事を そのように受け止める
というのは、かなり 力と勇気のいることです。
苦しく 辛いことであり、悲しく 情けなく 限りなく惨めなことかもしれません。
それでも 意志を持って それを 受け入れるのです。
「そのままの事実が自分に起こった」ことを ただ 受け入れていくことです。
本当に 辛いと思います。
苦しいでしょう、悲しくて 胸が張り裂けてしまいそう というのは
こういうことと 実感できることでしょう。
でも、それが もしも そのように受け入れられたなら、
たぶん 気付くと思います・・
あれだけのことがあっても 自分は自分でいる ってこと。
あれほどのことがあっても とりあえず 今 生きてるんだ・・ってこと。
それほどのことがあっても 朝は来たし、日は昇り、空は青く、木々は風に葉を揺らし
花は咲き、鳥は鳴き、海も山も 変わりなく そこにあり・・
ちょっとは 食べられないかもしれないけれど たぶん そのうち おなかもすくし
何かを食べて 味わうことも できる自分がいる・・
日のぬくもりも、風のさわやかさも、当たり前の人の挨拶も 何も変らないで
自分の周りに
あるんだってこと。
それに 気付くと思います。
それは こうも 言っていると思います。
「あなたは かわりなく あなたで、特別でもなければ、価値がないでもない、
ごく 当たり前に 存在すべきが ここに在るだけなんだよ。」 ・・と。
辛い経験は 人を 成長させることが多いですけれど
それは それを そのように受け入れた人にだけ 起こることのように思います。
どんなことになっても 自分は 自分でしかないこと、
そこに 優劣や価値のある無しが関わることは 一切 ないのだ ということを
きっと 知るようになると 思います。
だから とても、とても 大切なことなのです。
「つらくても、受け入れなければならないとき」に
それを そのように 受け入れる ということは・・!
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