私は 中学と高校時代に そのころ通っていたカトリック教会にもその支部のあった
カトリック学生連盟という組織に所属していたことがありました。
所属 といっても 自分の場合は 特になにするでもなく、ただ 日曜日ごとに 学校とは違う人たちと行き来できるということに興味もあって なんとなく 参加していたというほうが正しい言い方ではあります。
当時、神奈川県、山梨県、長野県、静岡県の4県まとめた 横浜教区の中の学生連盟 通称「学連」の指導司祭をしていらしたのが 伊藤神父でした。
このページの 「時の深さ」 という文を寄せられた方が どなたかは分かりませんが、たぶん 私よりは 先輩の方ではないかと 思っています。
そのページの上のほうに ”今年も 毎年のスケジュールと変わらないけれど 年頭に当たり 心がけてほしいこと として 学生達に話された” と ありました。
そして 以下のように 始まります・・
「人生のなかで、この一年は 一度しかないことを確認して、一年の時の長さの中に出来る限り『時の深さ』を追求してほしいのです。」
「単に学連についてだけでなく、学問、信仰、社会問題、その他自分の人間形成に関するあらゆることに対して真剣に取り組んで行くことを期待しています。」
「三百六十五日は 万人に等しく与えられているが、その深さの探求によって、自分の人生の今年一年の価値が決まるのです。
その意味で 一年の価値は万人に等しくはないのです。」
この 最後、日々の深さの探求が自分の人生の価値を決めるのだから 一年の価値は 万人に 等しいわけではない という・・
つまり、自分の過ごし方如何で 一年の価値が変るのだから よク心して過ごしなさいよ と いうことでしょうが、しかし そんなありきたりな言い方をするよりも ずっと 伊藤師の言われた言葉のままのほうが その実感を伴って響いてきますし、それを聞いたときの 緊張感が違います。
伊藤師は こんな風に どう言ったら 学生達の心に届くか と いつも 考えておられたように思います。
伝えたい言葉 というのは 心を込め、思いを込めて話せば通じる というだけではなく、相手の状態 状況にあわせて その人にとって 分かりやすく話していくことで 伝わるのだ ということを、伊藤師は いつも 実践していらしたように 今 思っています。
(私などは かなり いまでもぼうっとしているほうなので、いつだったか 伊藤師に 君はあんまり考えないね なんて 言われてしまったことがありましたが、それを言われても あ そうですね なんて のんきなことを言ったこともありました。)
一年 365日の価値は 万人に等しくはない。
自分で 自分の時を 深めていかなくては・・ と 思いました。
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