4月のお話し  パンを踏んだ娘

2005年6月 追記:魂の救い

 

 


 昔、あるところに 子供のない パン屋の夫婦がいました。

 村では 一番の おいしいパンを焼くと 評判のこの夫婦には子供が無く、いつもそのことを とても 寂しく思っていました。

 あるとき その夫婦は 村の親切な人の世話で 養女を迎えることを決心しました。
「気立ての良い 働くのが好きな女の子」というのが 夫婦の望みでした。そして やってきたのが インゲルという 親のわからない 孤児院育ちの女の子でした。

 インゲルは 色が白くて 金髪の美しい、誰が見ても綺麗な子でした。

 インゲルは 養女になって 孤児院を出て行くことを 長い事夢見ていたのですが、自分のような綺麗な子は どこかのお金持ちの家に引き取られて、何不自由なく 幸せな毎日を過ごすべきだと 思っていましたので、養女に出されることは喜びましたが、パン屋の夫婦の下に行かされると聞いて 大変悩みました。

 しかし 孤児院にいては そう なんども 養女になれるチャンスはないので、思い切って 表に出、また そこから お金持ちの家にもらわれていけばいい と 考え、パン屋の養女になることを承知したのでした。


 こうして インゲルは パン屋の娘になりました。
 夫婦は 綺麗な娘が出来て 本当に嬉しくて、店にやってくるお客さん達に いちいち 娘のインゲルです と紹介しました。勿論 その中には 村で一番のお金持ちの 地主さんの奥様もいました。

 奥様は インゲルを見ると その美しさに驚いて ぜひ行儀作法を仕込みたい と 言ってくださいました。 
 夫婦は 大変 びっくりしましたが 地主さんのところで 教えてくださるなんて なんとありがたいことか・・と たいそう名誉なことと喜びました。インゲルも また 地主の奥さんに取り入るチャンスがきたことを とても 喜びました。
 
 インゲルは 毎週 日曜日 朝早くから 一番いい着物を着て 地主さんのところに出かけていきました。 地主さんのところでは まず 長くて退屈な 牧師さんの説教があり、続いて お祈りを覚え 読み書きの練習をし、テーブルマナーを学びながらのお昼をはさんで、縫い物とお茶の時間を過ごしました。でも インゲルには 自由に話をすることは 許されませんでした。

 本当に 退屈で 堅苦しいことばかりでしたが もしも これで 地主の奥さんに気にいられれば あの パン屋の家を出られると思い、インゲルは 一生懸命 我慢しました。   

 一方 パン屋の夫婦は 自慢の娘が 地主さんのところで お仕込みを受けているということを 大変名誉なことと考えていましたから、失礼のないよう、娘の着るものや持ち物には とても 気を使って いろいろに 用意させました。

  それは それは 大変 お金のかかることでしたが 夫婦は 自分達に必要なものを我慢してでも 娘のために いろいろに整えてやったのです。
 
  しかし インゲルには そうした夫婦の気遣いの品物も 地主さんの家に行けば たちまち やぼったく 田舎くさく見えるので だんだん いらいらして 夫婦に文句を言ったり 八つ当たりをしたりするようになりました。 

 夫婦は 自分達の力の及ばないことを ため息混じりに こぼしはしても、やはり インゲルが可愛くて 言われるままになっていました。
 
  だんだん インゲルは 店の手伝いもせず、部屋の中で あれこれ 着るものをあわせたり、髪の結い方を気にしたり 自分を飾ることばかりに夢中になっていきました。

 そんなある日 おかみさんが 急用で、町まで行かなければならなくなり、店を離れられない主人は インゲルに 「お母さんの代わりに 地主さんのところへ パンを届けておくれ。」と 言いつけました。

 インゲルは 最初 とても 嫌がっていましたが、こんなところで パンの事なんかで言い合っているより 地主さんのところへ行って、お茶でもご馳走になろう と思い 綺麗におめかしして 出かけていくことにしました。

 その日の前日は とても ひどい雨が降って 道は あちこち ぬかるんでいました。
 インゲルは 水溜りをよけながら 綺麗な靴を汚すまいと 大変 気を使って 歩いていましたが、後 もう少しで 地主さんの家になる というところに どうにも越えられないほどの大きなぬかるみに でくわしました。

 インゲルは さて どうしたものか と 考えました。
 誰かやってきて 馬車にのせてくれないかしら・・とか こういうときに お金持ちの紳士が来て 私の美しさに目をとめ、この小さくて きれいな足や靴が汚れないように、コートを脱いで道に敷き、わたしを通してくれるものだわ・・とか、あれやこれやと考えていましたが、馬車も紳士も いっこうに 来る気配がありません。

 しばらくして インゲルは これ以上待っても どうにもなりそうにないと思い、スカートをつまみ 綺麗な靴を気にしながら なるべく 浅めのところを 歩こうと 一歩を踏み出しました。

 ところが ぬかるみは 思ったよりも深く、インゲルの足を捕らえて 離しません。インゲルは もう一方の足が濡れる前に 急いで もっていたパンを 泥の中に投げこんで、足が濡れないよう すばやく パンの上に降ろしました。

 突然 インゲルの体は ずるずると ぬかるみの中に引き込まれていき、あっという間に 暗い 何もない ドロだらけの場所に おちていってしまいました。

 ドロの底に落ち込んだ インゲルは、あまりのことに 泣き出してしまいましたが、しばらくすると 何とか ここから出られないかと 辺りを見回し始めました。

 勿論 どこにも なんにも ありませんでしたが、ただ一つ 高いうえのほうに小さく 丸い穴があって そこから 光りがさしているのが見えました。しかも その穴は 見ている間に どんどん せまくなっていくではありませんか・・!

 インゲルは あれがすっかり閉じてしまったら もう 二度と ここから出られない と 思い、地主さんのところで教わって やっと 覚えたお祈りを 泣きながら 一生懸命大きな声で 唱えました。すると かすかな声が インゲルに言いました。

 「お前は 傲慢で わがままだ。親切なパン屋の夫婦の気持を踏みにじり、挙句の果てに 彼らの大事なパンを 自分の足が汚れないように というだけのことで 泥除けとして 踏んだのだ。この罪は 重い。」    

 インゲルは 声の言うとおりだと思い パン屋の夫婦にした かずかずの ひどい仕打ちを思って ふかく後悔して泣きじゃくりながら、許しを求め、罪を償えるかどうか 訊ねました。 
 すると 声は いいました。「よろしい。それほどに言うのなら お前をここから出してやろう。しかし もとの姿ではない。お前は じぶんのしたことが どれほど 大きな罪であったか これから 知るだろう。」


 インゲルがいなくなってから 初めの冬がやってきました。

 外は 毎日冷たい霙が降り、北風がぴゅうぴゅうと泣き叫ぶように 吹き荒れました。

 パン屋の夫婦は ずいぶんとインゲルを探し回りましたが、誰に聞いても行方が知れず 村の人々も ”きっと あの子は 町に行ってしまったんだ” とか ”だれか ものすごいお金持ちの家に いってしまったんだ” とか いろいろにうわさするばかりで、何の手がかりもありませんでした。夫婦は とうとう諦めて、また 元の さびしいふたり暮らしになってしまいました。

 あるとき おかみさんは 店の前を掃除していて あることに 気がつきました。

 おかみさんの はき寄せるパン屑がたまるところに いつも 一羽のすずめが 必ずやってくるのです。そのすずめは お上さんの掃除が始まると すぐにやってきて 集められたパン屑を 小さなくちばしで 拾い集めると 屋根の上にもっていき、また すぐに 戻ってきては パン屑を拾い 屋根に運んでいくのです。

 屋根には 冬場で 食べ物の少なくなって困っている鳥達が あちこちからやってきてはすずめの運んだパン屑を おいしそうに 食べるているのでした。
 しかし あのすずめは ちっとも パンを食べようとしません。

 そこで おかみさんが 少し大きめのパン屑を放ってやるのですが、やはり それも屋根に持っていき 他の鳥達に 食べさせてしまうのです。

 おかみさんは 大変 不思議に思いながらも そのすずめが気になって 毎日 すずめのために パン屑を こしらえてやるようになりました。

 さて 勘の良い皆さんは もう すでに お分かりでしょう。
そうです。 あのすずめは インゲルだったのです。

 あの 泥の中で 聞こえてきた声は インゲルに 「人が気にもとめない ゴクありふれたすずめになって 毎日 自分が踏んだパンと同じ重さになるまで パン屑を 鳥達に食べさせ続けるが良い。
 それが叶うまでは 美しい姿とは 縁のない格好で、寒い冬の間 一口も 自分のためために食べず、誰にも気にとめらる事もなく 過ごさなくてはならない。そうすれば お前のしたことは 許されるだろう・・。」 と いったのです。

 すずめのインゲルは 言われたとおり 冬の間中、せっせと パン屑を拾い集めまわりました。

                
  
  そして 
春の日差しが あの寂しいパン屋の窓を 明るく照らす ある暖かな日の朝、いつものように 店の前を掃除するおかみさんのそばに あのすずめが飛んできて きょうは また どうしたことか いつまでも 纏わり着いて 離れません。

 おかみさんは うるさくなって 手で払いましたが、すずめは ちっとも 驚く風でもなく、かえって おかみさんの周りを飛び回り続けるのです。

 とうとう おかみさんは たまらなくなって ほうきを振り回しました。

 すると ほうきはすずめにあたって すずめは目を回して 地面に落ちてしまいました。おかみさんは かわいそうなことをした と すずめを拾い上げようとしましたが、其の時 すずめは さっと おき上がり、チュンっと ひと声高くなくと 勇んで 天の高みを目指して 飛んでいってしまいました。

 おかみさんのエプロンには 昔 インゲルを胸に抱いた時、インゲルの金色の髪の毛がついていたのと同じように ひとふさの 薄茶色のすずめの胸毛が 風になびいていました。 

 おかみさんは ただ ぼうぜんと すずめの行方を 目で追いながら、じっと たちつくすばかりでした・・。 

 

 

 このおはなしは ご存知でしたか?

 なんとも 子供の話としては 切ないものがありますが、おそらく こうした物語りというのはある時代 アメリカのホームライブラリーのように、子供に 善悪や信じてきた教えに逆らうことの大変さを 教えるために つくられたもののように 思います。
 
 しかし パンを踏むなんざ・・、あなた、米俵に腰掛けた 黄門様を彷彿とさせるようで、それこそ 人たるものの 超えてはならない一線を超えたかのような 大それたことなのだ ということを よく 分からせるお話しになっていますね。

 でもですねぇ、いつも 思うのですが、なぜ、どうして こういうことをするのは 女の子なんでしょう・・? わたしが思うに 女のこの方が食べるものを大事にすると (自分かな・・?)思うのですけれどね・・。
 時代によっては こういうことが いわゆる”女子教育”だったんですね。なんとも単純な・・! 内容その他は でも 例によって 遠藤の記憶が元ですから、適度に 脚色してあるということは ご承知おきください。
 

 この話は 何かにつけて 思い出されるものの一つで、其れを思い出すたびに 結末の現世的救いの無さに どうにも 納得がいかず、(何で ハッピーエンドではないのだ・・?と 思うこと) 一抹の不安―ひょっとして 振り向いたとたんに ずるずると どこかに引き込まれるのではないか・・とか 角を曲がったとたんに 出くわした水溜りに 沈んでしまうんじゃないか・・とか いろいろに 心配が広がったものでしたが、実は それは 今も あんまり かわりなく そう思うことのあることを 告白します。

 ちょっと見 人様からは 一応 大人というか 出来た(?)人間のように 思われている遠藤ですが、じつは 案外 ガキくさいところがありまして、そういうことを 思い出し始めると しばらく 毎日が 異次元世界のように見えてきて、いちいち おどおど びくびく、ひやひや ワクワクしながらの 日常が展開してしまうのが 結構 恐ろし楽しくて、こんども また 幾日かを そんなことを 感じながら 過ごしてしまうのだと思います。

 ま そんな風に 余裕で言ってしまえるところが もうすでに 子供の世界とは とおくなってしまっているという(この年で 何をいっているかとも思いますが) 確かな 現実を感じざるを得ません。 そうですよね 伝える側になってしまっているんですものね。

 だから まだ この話を知らなかった方は まだ 伝えられる側としての幼い部分を持ってお出でだということなのかもしれませんね・・。

少しは 楽しんでくださいましたか? 

 

 

2005年6月 追記:魂の救い

 遠藤風「パンを踏んだ娘」を ココに掲載してから3年経ちましたが、いまだに このお話についての反響が 時々 あります。

結末の現世的救いの無さに どうにも 納得がいかず、(何で ハッピーエンドではないのだ・・?と 思うこと)というくだりへの同意見=なんとか救いが欲しかった と言う内容の感想をいただくことがあります。

実は 私は 前回 ちょっとお茶を濁したようなことをしていまして・・その部分へのコメントについて、では・・ということで、特に調べはしていませんが、思い当たることを 書いてみようと思います。

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 インゲルは、養父母が丹精こめて作ったパンを 自分の見栄を満たすために踏んで地獄に落ちました。

 地獄に落ちたインゲルは、自分のしたことをひどく後悔して、こころから悪かったと反省します。そこへ届いた声は、彼女に 自分のしたことの償いが 彼女にもできることを告げます。

 そして インゲルは、ぜひともそれを行いたいと願います。

自分のしたことの罪深さについて、心からの反省と後悔を持つことが出来る時、人は 生まれ変わっていきます。

 彼女は 踏んだパンと同じだけの重さのパンくずを、自分は食べずにほかの鳥たちのために せっせと運ぶことを罪の償いとし それを果たします。

 さて、問題は ここなんでしょう。
ちゃんと罪の償いをしたのに、どうして インゲルは 人間にもどれなかったんだろう・・? 

 それについては、あのお話が、キリスト教を心と日常の生活の基盤として生きてきた人たちの中から生まれた話であるということに気が付くとき、このあたりの硬い結び目が解けるような気がします。

 「パンを踏んだ娘」をココに書くとき、私は ひとつ 大きなことをはしょってしまっています。もとの話には書いてあったのですが、それこそ描写がすごくて ちょっとかけないなぁ・・と思ったので、飛ばしてしまったところで、それは 実はインゲルの落とされた地獄についての場面なんですね。(機会があったらお読みください。) 

 この話をテレビで見たことがある という方たちにも、その場面は 先に書いたようなシンプルなものだったと思います、私もそのほうを利用しました。 でも・・

 もとの話の中の地獄の描写は、ざっと書くとこんな風です。

 暗闇の中、冷たく音もない広い場所で、インゲルは自分を見出します。しかし体は泥にまみれて醜く汚れ、おまけにそのために体は硬直して動かない。
  でも 意識も五感もあって、目が慣れてくると、自分のほかにも 沢山の人間達が 自分と同じように 周りに固まった状態でいる。

  皆 一様に 驚いたり、嘆いたり、絶望したり、悲嘆に暮れた表情をしている。インゲルは それが自分と同じように 罪を犯した者たちであることを知り、自分もその一人であることを理解する。

  かつて美しく愛らしくおおきく輝いていた自分の見開いたままの目の中で、銀蝿が這うのを 手で払いのけることも、瞬きして追い出すことも出来ず、気持ち悪い、いやだ、助けて と叫ぶことも出来ずに その感触を感じながら 冷たくなっていくからだとともに、じっとしていなくてはならない・・。

 何の音もしない、みんないるのに 誰もいない。 ただ ただ 暗くて冷たさが増すばかり・・ それが永遠に、終わりなくつづく・・

 考えるとトラウマになりますから、そこそこにしてくださいね。

 私たちのしっている地獄とは これまた随分違うものですね。
ダンテの神曲などにも 地獄の様子がかかれていますが、それはまた こんなものよりもっと なんともいえないものがあり、まだまだ 沢山の地獄のイメージというものが、はっきりとした形となって ヨーロッパなどの人々の中にあるというのは、私たちの日常には あまりないものだろうな と思います。

 これは 逆を言えば、彼らの中には天国や神というものの存在を大変身近な現実的なものとして 意識する生活がある ということでもありましょう。
  これを どんどん展開していくと 結局は 西の宗教と東の宗教の違いに関わっていくことになっていき、それはそれでまた興味深く 意義のあることではありますが、ここでは長くなるのでやりません。

 もうひとつ、犯した罪に対しての意識の問題があります。
彼らの中にも 勿論色々な考え方の人たちがいますが、大体の傾向のひとつとして、悪いことをした場合、そのことを悔いることは良しとされるけれど、してしまったことは消えないというものなんですね。

 これは 普通に考えれば あたりまえなのですが、今の日本では、これは例えばのはなしですが、子供が人を偶然にではなくて殺したとして、それはまったくの犯罪であるし、そんなことよりも何よりも 一人の人間の命を亡くしてしまったわけですから、それが正当防衛でない限り、どんな言い訳や理由もその事実を変えはしないのに・・、子供だから ということで、大人だった場合の罪には該当せずに、時間が経過すると ふたたび 何事もなく其れまでやってきたかのように 当たり前の顔をして社会に出、それなりに生活するということが行われてしまっています。

 似たようなこと 同じことを かの国々ですれば、その刑務所での収監年数は およそありえない年数―100年単位―となったりして、事実上 決して生きては現社会には戻れないことになることもあります。

 罪を赦すということを、犯してしまったことを忘れる ということにしない。 
  犯した罪について、後悔や反省をとてもよく行ったとしても、やってしまった事実は 決して消えはしない。そして 時間も過去には戻らない。 それを 日常レベルで分からせようとする。

  これは 勿論 時や場所を超えて 今現在の私たちについても 言えることなのですが、そうした考え方が 恐らく当たり前に 私たちよりも はっきりとした意識が 彼らの日常にあるのでしょう。
 
  犯した罪は赦されはしないが、罪を犯した魂は その罪を心から悔いることによって、そして 赦されるにふさわしい償いによって救われる ということですね。

 平たく言えば―パンを踏んだ→いけないことだと分かったので反省した→相手に謝り、自分でパンをこしらえたり 買ったりしてその分のパンを返した→では これからは もうしないんだよ、はい・・―では すまないということで・・、

 目に見える形では これでも良いように思えても、実際には、罪を犯したものの心―魂にはなんら変化はない。

 謝った後にこそ、自分のしたことを理解していることをもって、罪を犯して穢れた自分の魂を救おうと努めなくてはならない。
 
  そのあたり、日本にはない真剣な”厳しさ”を感じます。

 それでも 深く後悔し、反省した結果、積極的に その罪を償おうとするなら、その心根において、そのものの思いは報われる(赦す)ということを キリスト教ではいっているように 私は思います。

 人は 人ですから・・、誰でもが 間違いを犯します。

人様に あるいは社会に ひどいダメージを与えるようなことをせずに 最後まで生きられるなら、本当に幸いなことだと思いますが、人というものは 特別な事件などに合わなくても、だれでも ひとつやふたつの 決して人には言えない、どんな人にも言えないことを抱えて生きているものではないでしょうか・・

 たかがパンを踏んだくらいで、と思うかもしれませんが、パンを人の労働の実り、汗と労苦の結晶、命をつなぐもの として考えればそれを足で踏みにじることは 人を足元に敷くにも等しい行為ですし、キリスト教(特にカトリック)においては、パンはキリストの体の象徴ですから、それを踏むなどということは、決してあってはならない 冒涜以外の何ものでもないわけです。

その行いに なんの同情や理解の示されるものでもありません。

そして ”インゲル”は お話の結果のようになりました。

 しかし、それでも これは ひとつの救いにもなっているのでは、と遠藤がいいましたのは、上記のような理由からのことです。
 この考え方が正しいかどうかは分かりませんし、知りません。

 

 ただ、考えますとね。。私たちは あまりに 畏れを知らない人間になってしまっているのではないか・・、つまり 自分たちと同じ背丈の世界ばかりを重視し そればかりに価値を見出してきたばかりに、人そのものと人智を超えたもの、超自然的な力ある存在を見失ってしまい、まるで 子供社会のような世界―ぶったらぶちかえす、取ったら取り返す、いじめたらいじめ返すというレベル―の延長にある現社会になってしまったように思えてならないのです。

 これを続けていると、際限なく人間の質が落ちていきます。
人の品位とか尊厳とかについて 考えられない人間が増えていきます。
 そうやって 闘いや略奪、陵辱や非業の数々が行われるのです。

 

 インゲルから大分飛びましたが、インゲルが人間に戻れなかったことを不服とする思いを、もう少し その先に向かわせて・・・、

  人の注目を集め、大事にされて おもうままの生き方が出来ることをその目的としてきたインゲルが、誰の目にも止まらず 注意も引かず、決まった寝場所も持たない 小さな茶色の小鳥になって、罪の償いを果たすことによって得た幸い=罪の赦しは、インゲルの魂を永遠に続くおそろしい地獄から 輝く光の満ちる天に永遠に憩うことを許されたのだ ということをも、このお話は 伝えたくて書かれたようにおもわれるのです が・・

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