ひつじ小屋の風景 54 親バカ考
私のお気に入りのブログは毎日楽しく更新される"自称'あやしい中年'六郎さん"のものだが、先日そこに書かれていた 高校受験を控えた塾がえりのご長男との短いやり取り(本年1月24日分)を読み、ひとことのコメントをしたところ、「このクソ寒い中自転車で走りながら、夜空を見上げて感動できる感性というか余裕というか、まあそんなものが頼もしいと思ったのでした。ええ親バカです。」というお返しをいただいた。
そのブログをなぜ気に入っているのかといえば、ただ単に楽しかったりおかしかったりもあるけれど、どこの家庭にでもおこる日常のあれこれを簡潔で要領を得た知的な文章や、時たま見せる人生の淡い影の部分にたたずんで物言う'お父さん'に時たま共感を覚えることもあるからである。 |
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お父さん(ときには同じ男として)の目から見た二人の息子たち、夫(男)の目から見た妻(女)、日々積み重ねてきたいくつもの時々によって築かれてきたその家庭の様子を、六郎氏は実にいとおしげに(時たま少々の罪のない自慢と寒い夜につかる暖かな湯のようなぬくもりを感じさせながら)愛すべき日常として綴っておられる。
その中にあった先の日の出来事について、コメントせずにいられなかったのは、やはり時期的に微妙に揺れ動く年頃の息子に見た心のありようを誇らしく思う父親の率直さ(素直さのほうがいいと思うけど)がほの暖かく感じられたからなのだ。 |
世の男ども―とくに古い感覚の父親の中には、自分の妻や子供たちについて語るとき、どうにも相槌の打ちようのない自慢をしたり、あるいは逆にこれでもかとさげすむような物言い以外あまり耳にしたことのない遠藤なので、六郎氏のさらっと書きとめた、でもちょっとうれしい気持ちが直に読み取れてしまう温かみのある自慢話には、読みながらふと頬の筋肉が緩んで・・こういっちゃあ失礼なのだろうが、ちょっとかわいさを感じてしまう。
こんな風に思ってくれるお父さんがいるというのは、すごくうれしいことだな・・と思うし、それをどこかでこんな風に表してくれているというのも、とてもいいと思うのだ。
たとえば、すごくうれしいのは良くわかるのだが、自分の子供の頭のよさというか成績の良さとか習い事の上達度、あるいはその年代でほかの子供たちより勝っていると一般的に思われるような事柄について鼻高々に自慢されるよりは、はるかに素直に'いいなぁ'と感じられるのは、読む側、聞く側にとっても楽だし、それは聞いた方が正直に相槌を打つためにあったほうが良い気配りでもあると思うが・・いかがなものか。
私は 親馬鹿は嫌いではない。
どちらかというと親馬鹿にもなれない親のほうが嫌いである。素直でかわいい親馬鹿は、愛すべき存在でさえあると思っている。
ただ、やたらに誰にでもひけらかすように自慢しまくるのは、いくらかわいい親馬鹿さんでも辟易してしまうから、そこはそう、六郎さんのように、そそっと、ちょっとだけ 何かのときに伝えてみるっていうのは、すごく良い方法だな と思うのである。 |
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その子供がいくら自分の血の入った直接の身内だとしても、へその緒が切れたときからそれはもうほとんど他人で、その痛みや苦しみをいくら実の親といえども同じに味わうことはできず、その感性や興味に同調することも絶えず同じくすることはできない。
その恋した相手を見て なんでまた?と疑問に思ったり、選ぶ道についてもちょっとそれは・・と口出しせずにいられないのは、母親の胎に十月十日宿っていたとしても、それが決して母親のものでも、ましてやその片割れとなる父親のものでもなく、やはり一個の人格にしてこの世に唯一無二の彼なり彼女なりとして、この世に生れ落ちた神秘であるからこそ当然起こってくる、人というものの有限性を実に手っ取り早くわからせてくれる存在だからではないだろうか。
自分の家族を誇らしく思えるのはありがたいことだと思う。そういう家族に恵まれたことを素直に感謝できるのは、おそらくもっとありがたくうれしいことだろうと思う。
さて・・、ここで私も娘たち息子たちについてちょいと・・と思ったのですが、人数と夫々のそそとした自慢話がちょっと多めで誌面が足りません。ですので、それはまた何かのときに ということで。
六郎氏ご一家に 春の日差しあふれるごとき 日々の多いことを祈って・・!

『エレの引き出し』
ひみつのいえ 1
きいろいひつじは エレの手をとって、さきをいそがせました。
ふと ふりかえったおにいちゃんは あのちいさなゆめのいえが 一ぽんの大きな木の中にとけこんで もう どこにあったのかわからなくなっているのにきがつきましたが、はとにせかされて もういちどだけ ふりかえったあと エレたちのあとを おいました。
おにいちゃんは ときどき りょうてをあわせて その かすかなぬくもりをかんじていました。
うん、だいじょうぶだ。ぼくは ずっと この光のたまをもっているんだ。
そうしながら しばらくあるいていると、ふと 歩いているさきに すこしずつ はいいろのしかくいはこのようなたてものが見えてきました。
おかしなことに そのたてものには ドアはあっても どこにも まどがありません。
ふたりといっぴきといちわは みちのつづくまま、そのはいいろのたてものにむかってあるき、とうとう そのいりぐちのまえにつきました。
きいろいひつじが ふたりに とても 小さなこえでいいました。
「ここは ひみつのいえ。いいかい、ここにはいったら 大きなこえでしゃべったらいけないよ。そっと あるいて しずかにするんだ。やくそくできないと すぐにおいだされるからね。」
ふたりは なんだか とても たいへんなことがはじまるというようなきがして まじめなかおで ゆっくりとうなづきました。
つづく・・・
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1月の日曜日、
連れ合いのタコ氏と私の共通の
お客様ご夫妻のお宅に伺う機会が
ありました
そのときいただいた
お菓子の包み紙や結び紐で
カレンダーケースを作りました。
薄く向こうの透ける紙をギャザリングしたり
三つ編みにしたものなどを
適当に 貼り付けただけですが、
前面が手前に折れて
中を差し替えることができます。
左の絵は 母のしまい物から
もらったものを使っています。
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