ひつじ小屋の風景 70 優しい思い
もう20年以上も以前の冬のある土曜日の夕方。
その先の角を曲がれば駅になるというころの少し手前で、通りを横切っていたおばあさんが急にかくんと膝を折ってへたり込んでしまいました。すぐに後ろを歩いていた中年の男性が、おばあさんの腕を抱えて立ち上がらせようとし、また近くにいた40代くらいの女性もおばあさんが取り落とした手提げ袋を拾い上げて、男性と一緒におばあさんの両脇を支えながら通りを抜けて行きました。
彼らの後を追うように角を曲がった私と子供たちは、大きな木の周りにぐるりと作られたベンチに、そのおばあさんが座っているのを見ました。用を済ませた私たちはそのままバス乗り場に向かって歩き始めたのですが、冷たい風の吹く中、人通りのせわしい吹きさらしのベンチに 途方にくれたような様子で座っているあのおばあさんが気になり、そばへ行って「なにかお手伝いしましょうか?」とたずねました。おばあさんは、急いで言いました。「タクシーを呼んでください!」
そこは車を止められない場所だったので、それではタクシー乗り場まで一緒に行きましょう、と提案しました。ですが、おばあさんは足、とくに膝に力が入らないということなので、私は息子を呼んでおばあさんの腕を支えて歩くようにいいました。息子は、いいよ、といっておばあさんの歩きやすいように腕を貸し、私は、おばあさんの手提げ袋を持って少し先を歩いて、タクシー乗り場に向かいました。
|
全員でのろのろとおばあさんに付き添えば人目を引くかも・・と思ったので、私は娘に末っ子と一緒に本屋で待っているように言い、私と長男はおばあさんと短い話しをしながらタクシー乗り場に行きました。
土曜の夕方のタクシー乗り場では、タクシーがなかなか来ないようで何人かの人たちが列を作ってくたびれた様子で待っていました。
|
私はおばあさんに、家がどのあたりなのか、家には誰かいてくれているのか、タクシー代は大丈夫か、立っていて辛くないかなどなど聞いたのですが、おばあさんはいちいち丁寧に答えたあと、ふと私に向かって 「本当に助かりました。貴女様とお子様たちのためにお祈りいたします。」ときっぱりとした口調で言いました。
私はちょっとびっくりしましたが、すぐに「ありがとうございます。お願いします。」と答えました。
|
・・大きなぺリドットの目の
あの毛のふわふわした猫・・
|
そういう会話をなるべく回りに聞こえないようにしたつもりだったのですが、私たちの前で 大分順番を待っていて いい加減待ちくたびれ始めた二人の小さい子供をつれたご夫婦の奥様にはそれが聞こえていたようで、その人の番になったときに彼女は振り向いて、「お先にどうぞ。」と声を掛けてくれました。
「ずいぶんお待ちになられたのに、よろしいのですか?」「どうぞ、寒いですから冷えるといけないし。どうぞお先に。」
私はお礼が言っておばあさんを乗せ、運転手さんに場所とおばあさんの状態と降りるときに手伝ってほしい旨を告げると、運転手さんは「かしこまりました。」と返事をして、急いで車を発進させました。
タクシーが出た後、私と息子は順番を譲ってくれた女性とそのご家族に再びお礼を言って、子供たちの待っている本屋に向かいました。
おばあさんは恐らく無事に家に戻ったことと思いますが、おばあさんがきっと予想もしなかった”突然道端にしゃがみ込む”という事体から”自分の家に戻る”まで、数人の人たちの手と心が起こした一連の出来事は、今でも思い出すたびに関わった人たちの「人への優しい思い」の表れを感じる出来事として記憶に残っています。
20年前の冷たい風の吹く寒い冬の土曜日の夕方、恐らくその出来事に関わったものたちのそばを通り過ぎた幾人もの人たちの目には、映ったところで一瞬のうちに忘れ去られていただろうその出来事は、雑踏の中で見知らぬ者どうしが、わずかな時間に深く暖かく「心を合わせた出来事」でした。
『人』についての良い記憶のひとつとして、いつかは一度書いておきたいと思っていたことでした。
|