ひつじ小屋の風景69 赤ちゃんポストに寄せて
「赤ちゃんポスト」なるものが熊本県の病院のひとつで開設、始動された。
様々な事情により、縁あって授かった命ではあるがどうにも育てられないために放棄したり、抹消するような状況になるくらいなら、と養子縁組などの一手段として考え出されたという「赤ちゃんポスト」設置にあれこれ意見が出ているが、それを作ってでもどうかしないといけない現実のあることを忘れてはならない。
『命』に貴賎や質の違いがあるわけがないが、その命がどのような立場や状態に生まれたか(例えば婚外子とか肉体の状態など)によって 受け入れる側の認識が変わることが普通のような社会においては、その認識こそがそもそもおかしなこと、大きな「命に対する冒涜である」ということを、まずは問われるべきではないか と思う。
あるコラムで、「責められるべきは子供を手放した母親だけではないことを、もっと深く追求しなくてはならない。」というようなことが書かれていた。「女性がひとりで安心と十分な守りの内に子供を育てられない環境にあるこの社会にも責任と反省は促されるべきであり、また、その子供の父親なる男が、母親が独りで育てられない状況にあるにもかかわらず母子を放置し、挙句の果てに母親が苦しみから子供に手を掛けるように追い込んむようであるならば、それは母親の行為よりももっと注目されねばならない。」ともあったが 同感である。
さらに言えば、どんな状況下であっても、子供を身ごもったことを喜んだり受け入れたりできない母親になる立場の女性に差し伸べられてほしい厳しくも愛情深い手も この国では非常に少ないということも考えなければならないだろうと思う。 |
we love you,Mom!
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あるとき生まれた赤ん坊が、まもなく亡くなったとする。
その時、残ったものたちは それをどう思うのか。何の意味も無かった と思うのだろうか。生まれてくるべきではなかった、何のために生まれてきたんだろう、生まれなければ良かった などと思うのだろうか・・。その本当は 誰にも分からないが、その赤ん坊にとっては、「生まれる」ということ、その父親と母親との間に生まれるということが、まず大事なことだったのではないだろうか、そしてそこで死ぬということが、その赤ん坊の仕事なのだろうと思うのだ。
(だから、そういう子供には「良くここへ来てくれたね、ありがとう。ずっと忘れないよ。また 会おうね。」といい、残ったものはその子の人生を胸にして生きるのだ・・)
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どの人生にも どの人の過ごす時間の量にも 恐らくたいした違いは無いように考える。命は 自ら生まれ出ることはできない。その父となり母となるものからしか生まれ出ることができない。生まれた後のほうが見て分かりやすいので、なんとなく最初から命に貴賎や優劣があるように思ってしまいやすいが、実はそんなことはまったくもってとんでもない誤解で、まずは命というものが、人の手でゼロから生み出せるものではないのだ ということを、明確に しかと我々一人ひとりが認識しなくてはならない。
人が赤ん坊になって母親の体内に宿り、そこから生み出される経緯については、もうすでに様々に知らされていることではあるが、では なぜそうなるのか については、我々の頭では これまで、そして今後もどんなにしても解明、理解することはできないだろう。一人ひとりの命は それほどに貴重で稀な"奇跡"的存在なのである。
その輝かしい奇跡をわずらわしいもの、不都合なもの、邪魔のものとして排除しようとすること、それを悪魔的傲慢といわずして何というのだろう??
豊かな国日本の中の歯噛みするような極貧がそこに在ることを、認知するべきである。
人は 生まれて、生きて、死ぬのだ。それを十分に行うことが人生なのだ。
その時問題とすべきは「何をして」ではなく、「どのように」であると、特に 今この日本にすでに生きているものたちこそが 謙虚に反省、理解するべきであろうと考える。
「赤ちゃんポスト」が、改めてそれぞれの命を感謝と敬意を持って受け入れるきっかけにもなり、また ポストの中に託されるかもしれない命に、さまざまな角度から 愛のこもった手の差し伸べられることを、心から祈っている。
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