桜が、咲き始めていました。そして 過日は 朝からの雨花冷えの一日。その翌日の早朝の曇り空は 和紙に薄墨を滲ませたような見事な青灰色の濃淡。
そこに、まだ眠たげな薄手の淡いピンクの花びらが、冷たい中にも微かにぬくもったような朝の風に起こされて、とろんとしながらこちらを眺めておりました。
一年中で、一番、この時が好きです。
実際 出かけていって花を見に行くのは勿論、その短い盛りにどうにも間に合わずに行き違ってしまって、ただ通り過ぎるばかりのときがあったとしても、私は「この時季が一番いい。」と思っているのです。
そして先日、連れ合いが伺ったそのお宅のお庭にあった桜を、其方の方が二挿しほど切ってくださったからといって持って帰った桜が、数日後 テーブルの上で満開になりました。
机上のお花見。これだけ生きてきて こんなの、初めて。すごく嬉しかったです。
ハートの花びら
かわい!
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桜という花はなんとも不思議です。その一つであるときは、なんだかとても頼りなく、あまりの色の淡さに 他となじみすぎて解けて消えてしまいかねない。
それなのにいくつものそれらが集まれば まるで夢雲、淡雪の化身。推さなさ、艶めかしさ、でも気品さえ漂わせ、楚々と、そしていざとなれば思い切りよく潔く激しい・・、なんとも心ざわめかせる美しさは、一種 凄絶とも言えるような感じすらします。 |
人の記憶などはるかに超えて、幾世もの時々をその身に携えて在る古木たちは、時季になるごとに、何を咲かそうというのだろう。いつも、いつも思うのですね、そんなことを。
桜の樹の下を歩く。昨日までは まだもう少し先だなと思っていたのに、いきなりその一枝にひしめき合うようにいっせいに咲き満ちるとき。少し離れた小山のあちこちに柔らかな春霞になって見えるとき。
花びらが風に乗って明るい日差しに舞い踊るとき・・。一瞬、越えてはいけないとされている時空の壁を、ふと誤って飛び越えてしまったような、わけが分からずに立ち往生するような、そんな感覚になることがあるのです。
その感覚は 本当にとても独特。そして 何故だかいつまでたってもそれにちっとも慣れなくて、毎年同じ驚きを繰り返す自分が、ばかだなぁ・・と思いながらも、結構気に入ってもいるのです。
何故か優しい気持ちになる。どうしてか暖かな思いになる。静かに、そっと、そして愛しげな眼差しの微笑に包まれるような気持ちになる・・。
毎年、毎年・・、いつも いつも そんなものを桜の樹の下を歩くときに感じます。
私は何度も躓いて、私は何度も間違える。私は幾度も誤って、私は幾度も悔やんでる。
過ぎていった時々は決して戻ってこないから、どんなに悔やんで苦しんでも、過去や昔は変らない。ただその事実が在るばかりで・・、終わったことは何一つとして変らない。
変っていくのはこの自分、それなのにやっていることは一向進歩が無いのです。 |
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だけど・・、それなのに、毎年 毎年 春が来れば桜がそのように咲くのです。 『大丈夫だよ。』というために。
「命のある限り、何度でもやり直していいんだよ。」
絶望しない、希望することを見失わない、諦めないでもう一回やってみようとする。そうすることが全く意味ないとか無駄とかなんかじゃないってことを思い出させるために・・・。
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なんて、ね。暑いのも寒いのも苦手だから、のんびり好きに過ごせるこの時季が性に合ってるから、そんなことを考えるのかもしれません。しかしながら、私は 実にその通りと信じて今、居ります。
世間的に価値があるとされることで、人の耳目を集めることなどを人生の目的にするというのも悪くはありませんが、山の桜のように、普段はその存在など思うことなどないけれど咲いて始めて、ああ、こんなところにも桜が・・というような、そんな人生もいいなぁ・・思います。
その時だけですけれど、ちょっとの間、見る人の慰めや小さな喜びに参加できるそんな人生もいいんじゃないかなぁ と やっぱり桜を見ながら思うのです。
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