見たくない気持ち
Posted on 2012年3月8日 by 大平一枝
仙台に住んでいる人の書くものを読んでいたら、震災特番も一切見ないし、「3,11あの日を忘れない」みたいなタイトルもいやだとあった。たった1年で客観的に映像をみつめられるような程度の傷ではないということなのだろう。「3.11を忘れるわけがないのに何故そんなタイトルをつけるのかな」とも書かれていた。報道の東京発信の目線に今さらながらに気づかされた。それでも発信しないようにし続けたほうがまし。ましだけど、もっともっと私たちは、全力で寄り添わなければいけない。軽いパンチを食らった気分になった。
そうなんだろうな・・と 思う。
実際 自分も なんだかなー と 早くから あの惨事が遠のくに連れて遣われ始めていた「忘れない」風の物言いに、なんともいえない 違和感を感じていた ということに、先の文の中で 気付いた。
軽いパンチ・・
こういうことって 結構 あるんだろうな と おもう。
自分にとっては、なんの抵抗もなく使える言葉が、だれかにとっては、おそろしく無神経だったり、深い意味もなく、妥当と思って遣って言葉が、相手にかなりのダメージを負わせるような結果をもたらしたり・・
言葉って ものすごくデリケートなものでもあるし、だから 文を書いたり、それを人目にさらしたりするときは、十分気をつけて・・なんて おもうし、そうすべきと思いはするものの・・、あるいは、人と話すときに、とくに なぐさめたりする時やほめたりするときなどには、うっかりすると まったくそんなつもりでなんか 言ってないのに、そう受け取られてもしかたないような言い方をしたりしていることに、後になって気づいたり・・
そういうことをした、と気付く時は いつも、そう 軽いパンチを食らったような・・
別段 意識して 相手をやり込めようなんて これっぽっちも思ってなどいないのに、そんな結果になってしまったときは、相手の心理状態も、まぁ あったとしても、でも やっぱり 発する側は、あとちょっとだけ 気遣いがあっても・・ と 思うことは、これまで生きてきて、、そう、なんども 何度も あった。。と 思う。
ずいぶんと、それこそ 軽い反省のように 思えるような文だなぁ・・と 書きながら思ってしまう・・。
とにかく、まだ あれから たったの一年しか経ってないのに、60数年前のことを忘れないようにしよう、という呼びかけるのに似たものを感じる・・ という、それは、やっぱり なんか違うだろう・・という 気分になるのだ。
それって ずいぶん 昔の、ひょっとすると 日常で それを意識することが ほとんどないこと みたいな、そんなことに対する思いに限りなく近いように思える。
だからといって ふさわしい言葉は?と いわれても、うーん・・ と なってしまうのだけれど、なんだか もうちょっと 違う言い方をしたほうがいいんじゃないか と、番度 感じているのは、おそらく 自分だけではないだろうと思うのだ。
物を言ったり、書いたり それを それほどの広さではなくても、人目にさらしたり・・というのは、ほんとに 気をつけないと、と おもう・・けれど、いつも それと対でおもうのは、読む側のことで・・
自分も 人からメールをもらったり、書いたものを読ませてもらったり ということは、度々あって、そういうとき、この人は、それほどの意味もなく こういう言葉を使っているんだから・・ と 自分をなだめることも たまに ある。
その人の性格などからすれば、別に なんの悪意もなければ、こっちに刃をむけようなんてこと、これっぽっちも思ってないってのは よくわかるのだけれど、それにしても ・・と おもうような物言いを目で読んでしまうと、つかれているときなどは 特に、むっとする以上の、嫌悪感に近いものを感じてしまう。
そういうときは、時間を置いて、また 読み直し、その人の それを書いたときの心情などを 思ったりしつつ、なるべく 腹の立つような言葉のところを 流し読みなどして・・?・・ やり過ごしつつ、返事を書いたりする。
まぁ・・ 言葉と言うのは ことほど左様に厄介なもので、
でも、言わないでいられない、だから 書いた、というこのも、じつは あるのだ、ということに 気付くべきだろう と 考える。
なぜなら、我々は 未完の者なのだから。
いくら年を重ね、いくら様々に経験を積み、相手の心を慮ることを どれほど 深く大切に思っていても、人は 結構 簡単に 失敗するのだ。
それが 自分を含めた「人」なのだ、という 認識を もっていたいと いつもおもう。
。。。ちょっと えらそうだけど、そういうことに 腹を立てて 怒って反駁するというのが、そろそろ しんどくなっている自分になりつつあり、相手と 正面から渡り合おうという気を保つだけの体力がないので・・ というのが、実のところではある。
しかしながら、たかだか 一年と言う月日が過ぎたというだけで、「忘れない」 と言われて、こんなことを書いている自分が一番、先の震災との距離が開いている日々を過ごしているのかもしれない。
私たちは 有限の生き物。その皮膚とこの皮膚との間には、どうにもなじみあい、浸りあい、混沌と交じり合うような、そんなことは 人が存在する限り、生き物が存在する限り、肉体的には 決してないことなのだが、ただ、心は・・
心は、思いを馳せることや思い遣ったり、気遣ったり・・、日々、心に思うことで、多少の互いの重なり合いや行き来は、できるだろうことは、普通に生きていれば、だれでもが経験していることだろう。
ただ、先のようなことについては、誰かを思って自然にその人で 心が一杯になる、というのとは別の、意識的におもうことで 心にそのことを満たしていこうとすることで、思い続けられるのだ、ということに、意識していた方が いいように思う。
我々・・ 自分も含めて、やっぱり、忘れっぽい生き物なんだろうな と。
考え続ける、思い続けることにも 体力は いるのだ、と そんなことを思うたびに、いつも 感じてしまう 近頃ではある・・。
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