『昭和七年三月五日の朝、三井合名理事長団琢磨が、東京日本橋の三井銀行前で暴力団の一人に殺された。
折から上海には日本陸戦隊が上陸し、中国軍と交戦していた。日本が世界の唾を受けながら、シナ大陸の広漠とした泥濘に転倒する序章が、すでに始まっていたわけだが、それとも知らず、軍部はようやく驕慢げな跫音を高らかに立てて日本をはいかいし、それに黴のように付着した右翼の妖怪がかってに彷徨し始めていたのだった。』
上記は、昭和33年5月に「週刊朝日」に掲載された 松本清張氏の「額と歯」の冒頭部分からの抜書きです。(細かにルビもふってあるのですが、それは割愛しました。)
この、当時の社会状況描写のあと、おどろおどろしい殺人事件へと話は進められるのですが、当方、先の文を読んだとたん、おや・・どこかで似たような・・?と。
実際の昭和七年三月のその事件は、後に血盟団事件と名づけられ記録されるのですが、wikipediaによりますと、主謀者の当時日蓮宗僧侶であった井上日召という人物が、『政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を、「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」と名指ししてその暗殺を企て、配下の血盟団メンバーに対し「一人一殺」「一殺多生」を指令した。』ことにより、起こったと記載しています。
その結果、昭和七年の二月、当時前大蔵大臣で民政党幹事長の井上準之助が、小沼正という人物に殺され、小沼はその場で逮捕。
続いて、翌3月5日に、先の団琢磨が菱沼五郎なる人物に射殺された、と。
菱沼もその場で逮捕され、その後、その2件の殺人事件が血盟団の組織的犯行と突き止めた当時の警察は、同月11日に首謀者の井上日召の自首を受けて、関係者14名を一斉に逮捕した、となっています。
この事件は、昭和7年に起こっているのですが、その後の裁判で、井上、小沼、菱沼の三名は、無期懲役刑になったにもかかわらず、昭和15年には恩赦により出獄し(人を殺しておいて恩赦って・・!)戦後もそれぞれに右翼として活動していたようですが、当時意を同じくした14名の中の一人、四元義隆という者について、wikipediaでは このように記しています。
「四元は、出獄すると井上日召らと共に近衛文麿の勉強会に参画、近衛文麿の書生や鈴木貫太郎首相秘書を務めた。1948年(昭和23年)の農場経営を経て、1955年(昭和30年)より田中清玄の後継で三幸建設工業社長に就任(2000年 - 2003年会長)。この間、戦後政界の黒幕的な存在として知られ、歴代総理、特に細川護煕政権では「陰の指南役」と噂された。2004年(平成16年)6月28日老衰のため死亡する。享年96。」
歴代総理、特に細川護熙政権では「影の指南役」・・、で、平成26年1月現在、細川護熙氏は、東京都知事選に名乗りを上げています。
いろいろ、思うところはありますが、それはそれとして、松本清張氏の「額と歯」は、事件の詳細を握った新聞記者らが、他社を出し抜いて号外を出すにいたるまでの何時間かの様子や、ようやくゲラを印刷に出して部屋の全員が大安堵のうちに祝杯を挙げるまでを 熱を帯びた疾走感を持って描写した後、最後をこのようにしめています。
『悲劇が絶えず同じ時間にどこかで起こっていることを知ってはいるが、幸いに人の意識は現在身体を置いている手近い位置にしか定着していない。―現に、整理部の机に投げ出され同じ日付の一面のゲラは、日本を世界から孤立させるため、代表松岡洋右がジュネーブに出発した活字をならべていた。』
大体が、推理物は 何しろ勘が鈍いので、なかなか読むというだけでも、状況の把握にいちいち苦労する自分なのですが、今回、ブックオフで 推理もの大好きの娘が200円で購入してきた 角川文庫版の松本清張著「失踪の果てに」の第二話にあたる「額と歯」は、ストーリーとしての事件もですが、その冒頭と終盤それぞれの数行の社会情勢を、この今現在のそれと、かなり酷似しているように思ったのは、自分だけなのだろうか。。と。
気がついたら、大きな黒いうねりの中に飲み込まれていた、というのもありえますが、あるいは、我々は すでにそのうねりの中に居て、手も足も出す間も得られぬまま、行方の知れているうねりの先へと、まるで何かに連行されるがごとくあるのかもしれません。。
さて、我々は、何を持ってそれらに抗い、懐古に酔う輩の悪行の数々をいなして行けるものなのか、そんなことを 考えてしまった本を 先ごろ読んだのでした。
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