Aurea Ovis

きょうは『金羊日』

2010年 9月

 

1 物を持つ不安

 

 昨晩、何の気なしに 階下の天井にすえられた電気のひもをひっぱったら、・・ 切れた。

 ・・ので、タコ氏が 取り付けようとして 全部を取り外し、問題の箇所を開けてみたところ、そのもの自体が もう かなり古くて、これをあえて 付け直しても・・ということで、大家さんに 今朝 連絡し、電気屋さんが 新しくして さっき 帰っていったところだ。

 もともと 自分で 漫画本を買うことが無かった自分なのだが、大人になって ふとしたことから 手に入れた『papa told me』という 漫画(ご存知の方 多いことと思います)を、20冊以上買ってしまったことがあるのだが、その中のいろいろなエピソードのひとつに、「物を持つこと」について かかれたものがあり、それには かなり深く共感した。

 「私はこわいの きっと 所有するってことが

 何かを手にすると ひとはかわってしまうでしょう
 そのものを 守ろうとするでしょう 
 それは とても 美しい行為ではあるのだけれど
 エゴイズムも 雪だるまのように 大きくなっていく
 「そのもの」を巻き込んで 一つの固まりになって 斜面を転がって 他人をなぎ倒して」
 
  (17巻 episode.81 welcom doll より)

 まったく 同感。

 しかしながら、そこまで 深刻に考えるようなものでもないものなどを、夫々の暮らしの中で、気に入って 手に入れることなどは 誰だって 嬉しいし、うきうきした気分になったり、それを見るたびに 小さな喜びを感じることが 人にはあるだろう。
 そして、それを 自分が持っている嬉しさも 感じるはずだ。

 そういうものが 程度の差の大小はあれ、いくつも自分の身の回りにあるのが、我々の通常の生活で・・
  つまり、衣類やアクセサリーなどの身に着けるものとか、自分が興味のあるものを集め求めることなどなど、それが 自分にとって 楽であり、楽しみであり、心地よく、気分が良くなるという そういうものを 人は選んで 生活を成り立たせている部分が きっと誰にもあるのだろうと思う。

 ところで、先日 買い物をしているときに 店内のラジオから、最近は 若い世代が持ち家を求めるようになってきていて、30代の三人に一人だか 二人に一人だかは、すでに 家持だというのを 聞いた。

 自分はその時、”まー すごいなー”と おもったのだが、、なにがといえば、自分の30代のころは、そんなことを 考えたこともなく、ただただ 仕事に生活、そして子育てで一杯一杯で、また 両親との同居だったこともあり、ほとんど 家を持つということを 思いついたことも無かったからだ。そんな余裕、経済的に、まーったく ほんっとうに 無かったし・・。

 今は 言い方のひとつとして 100年に一度の不況 とか言う時代だというのに、そんな世の中で 暮らしている30代の二人だか三人だかに一人という その率に なにしろ へぇ〜・・と なんとなく びっくりというか・・ なんでまた・・などと 思ってしまった。

 まぁ 先々を思うと、長いローンを完済するためには、早いうちから、そして 返済可能な金額を返済可能な期間に払いきるためには、当然の選択なんだろうな とは おもうものの、自分のような 借家住まいに 特に 問題を見出さないものには、価格的金額の桁数を どうにも実感しがたく、ただただ 凄いなーと 恐れ入るばかりだ。

 大体、何かを持つことにつきまとう束縛―管理とかメンテナンスとかいう・・―が 自分にはできない上、タコ氏が これまた 自分に以上に そういうことには およそ関心が無いので・・、つまり 何かを持つことは、まぁ ここで言えば 家を持つ→管理・メンテナンスが不十分になる、あるいは出来ない→持っているだけで 大変・・! という 順を踏むのは 分りきっている我々なのだ。。 

 雨戸が壊れた、水道がおかしい→大家さんに直してもらう。。という 生活を知ってしまうと・・ なんか アッチこっちに連絡して あれこれ手はずを踏んで という そういうことを面倒がる自分は、ことさら 家を持つことに固執することもないと 思っているらしい。

 何かを手に入れることで 今度は それを なんとか守ろうとする自分ができてしまい、そのために それが無ければ しなくても良いようなことを してしまいそうになったり、それを失ったときのことを 恐れるようになったり・・、

 だからだろう、先のマンガのエピソードを読んだとき、ああ そうなんだよねー と 共感してしまったのだ。

 こうかきながら ふと思ったのだが・・、手離すという行為も なかなか 難しいものだが、その難しいことをしないためには、手に入れないという選択もあるだろう。

 先日、娘の一人と入った喫茶店に 飾ってあった 売り物の素晴らしいカップ&ソーサーをみて、ああ!すっごく ほしい!と 思い、タコ氏に 値段とともに その話をした。

 タコ氏と言う人は 結構簡単にいうのだ、「ほしい?買ってあげるよ。」

 そりゃあ ほしいのだ。だから 話したのだから。。 お値段もお手ごろだし、せめて 2客はほしいなーと。 だって ほんとに 素晴らしいんだから!あんなの見たの、初めてだし・・

 でも、自分という生き物は なぜか 数時間経つと あるいは 数日経つと、つまり そのものを 見ることが無い時間がしばらく続くと、あろうことか 忘れてしまう!のだ。
 (時には 何がほしかったのか、それをほしいと思ったことがあった ということすら 忘れている場合もある。。)

 ・・で この話を書きながら いま 改めて そのカップ&ソーサーのことを思い出したのだが、やっぱり すごくいい、あれは、と 思いつつも 持っても入れるところないし・・なんて 思うと、ものすごく 積極的に あれがほしい という気が失せてしまっているのに 気付いてしまった。

 (まぁ この場合は、手に入れないという選択をした というよりは、自分的には スルーしてしまった、いやいや 忘却の彼方にすっ飛んで行っていた というほうが 正しいというのは 十分 承知している。。)

 大体が こんななので、そして 二人して、物の持ちが やけに良いので・・、つまり 新しく物を持つ という機会が、近来 とくに減ってしまっている。
 (それでも 気が付くと こまごました どうでもよいものが増えているのは、何故だろう??? 謎だ。。)

 とにかく、特に 家のような 大きな物になればなるほど、「ものをもつ」ということに、ある種の制限のようなものを感じないではいられない。

  たとえばの話だが、これからも 引越しを繰り返して そのたびに どんどん持ち物を減らして、これだけあれば 日々の生活には困らない、大丈夫だな みたいな、そんな暮らしが 死ぬまで出来たら、すごく いいなぁ・・・と 思ったりしている。

 しかしながら・・・生活雑貨においては、ざっと 今居るところを見渡しても、コレだけの物を さて どうやって 減らせるか と頭が痛くなるほどで・・、
 人の生活というのは、とくに この国の一般ピープルの生活というのは、ことさら やたらにそれほど 必要に迫られて持っている物でもないようなもので 溢れているように思える。

 

 物欲は 誰にでも多かれ少なかれあるのが人間で、だから それを いいとか悪いとかでは 判断したくないけれど、こう ものが溢れてくると どうも いらんものばかりが目に付いて・・ そうなると、やっぱり あまり良いものではないんじゃないか などと 思っている。

 なかなか、面倒な問題ではあるが、この国の、この今の、人の生活を、すっかり変えてしまえるような 意識改革を、どこかでだれか 起こしてくれないかなぁ・・ なんて 人頼みなことを 思ったりしているのだが・・、

 毎度のごとく、自分の身の回りのお片づけで おわっちゃうんだろうなー。。 

 

 

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