3 8月15日と母
昨日は 8月の15日だった。
自分は、まったく戦争を知らないで育ってきたが、両親は 戦前戦中を体験してきて、よく知っている世代だ。
両親は でも、積極的に そういう話をしようとしていたようなことは なかったように記憶している。
ただ、まだ 小学校の低学年のときだったときのある夏の夜、風呂上りの父親の背中の傷をみて なんで怪我したのかとたずねたら、原爆の時にやられたといわれ、すこしだけ 原爆とはどんなもので、それが爆発して どんなことがあったのか ということを 話されて、ひどく 恐ろしい思いになって 黙ってしまったことがあって、母が「やめなさい。寝る前にそんな話し。」と いって、布団に連れて行かれたことがあったことを 覚えている。
人一倍 言葉やイメージに影響されやすい自分だったので、話を聞いたあと しばらくは、ずっと その話を聞いていたときの自分の勝手なイメージから どうしても 逃れられなくなり、恐い夢を見たり、どんどん絶望的な想像が先走ったりして、なんでもないのに、やたら 心臓がどきどきしたり、人と話すのが恐くなったり・・などしたことがあった。
だから、そんな暗いイメージ、怖くて恐ろしくて絶望に向かうばかりのイメージなど、ほんっとうに 思うだけでも 絶対に いやだったこともあって、中学生くらいになってからは、戦争の話になると 当然のように 拒否反応が出て、聞きたくない、とか もう いいよ、とか あるいは 何も言わずに 黙ってその場をたったりしていた。
そんな風だから、もともと それほど 親しくない上に、話し方があまりうまくなかった父親からの話は、かなり ぶつぎれというか、まとまりのない話の記憶でしか ない。
一方 母は あまり 戦争の前後やその最中について話すことは もともと無かった。
それでも ちょっとしたきっかけで、唐突に 戦争中などの話をすることもあった。
1945年の8月15日を 母は満州で迎えたそうだが、終戦の知らせを聞きはしたものの、玉音放送については、その日の夕方に 人から伝えられて知ったくらいで、だから 内容もなにも 全然しらなかった ということだった。
そこから、どのくらいの期間を経て、どういう経路で日本に戻ってきたのかなどは 聞いても 話してくれることは無かったのだが、これまでに 数回、佐世保の港でのことを 聞いている。
母は、彼女の母親―遠藤にとっての祖母―と一緒に、船で佐世保に着き、大きな船だったから 船は港には入らず、乗船者は 一人ずつ、縄梯子のようなもの(なのかどうかは分らないけれど、とにかく階段状のものではなかったようだ。)を おりて、小船に移ってから、港に上がったのだそうだ。
その時、娘だった母は もんぺをはいていたのだが、祖母は 着物だったそうで・・
着物は 今は、洋服を着るときの下着をつけて着用することが普通だが、本来 着物の場合、下着というのは 巻くもののみなので、その時の祖母も そうだったわけだ。
小船のほうには 船員などがいて、降りてくる人たちを 介助するのだが、それは とりもなおさず、上から降りてくる人の真下にいることになるわけで・・
だから、祖母は なかなか 降りられず、いよいよ 降りなくてはならなくなったときは、小船に乗り移った後も、陸に上がったときも 一言も口を利かず、だまって ずっと怒っているような顔をしていた と 母は言っていた。
佐世保では 引き上げ者たちのために、すぐに 食事がだされたそうだが、「その時のご飯が、ひじきご飯だったのよね。だけど ひじきがちゃんと洗ってなくて 砂でじゃりじゃりしてて、とってもじゃないけど たべられなかったわ。おいしくなかったし、すごく 嫌だった。」と 本当に 嫌そうな顔で 話したものだった。
そのせいだろう、母は ひじきご飯を 本当に 長いこと 食べなかった。大体 ひじきご飯というものが あるというのを 遠藤は大人になってから 知ったくらい、家では そんなご飯は 一度も存在したことが無かった。それくらい 母は嫌っていたというわけだ。
数年前から、母の記憶が曖昧になったり、日常を 自分ひとりでこなせなくなったある時、ひじきご飯をつくって 夕食に出したことがあったが、その時は 何もいわずに 当たり前のようにたべていた。
食事中に あ そういえば おばあちゃん、ひじきご飯きらいだったんだっけ とおもい、母に「ご飯 食べられるの?」と 聞いたら、おいしいわ という返事があった・・
忘れるとか分らなくなるとかいうことは、ある意味 いいことなのかも知れないなと その時思ったものだった。
母は 毎年 父が テレビの前にかじりついて 戦争の特集番組を 昼夜に違わず見ていたのを、ひどく 嫌がった時期が かなり長いことあった。
『その時のこと』を思い出して 嫌だ というのだが、何のどんなことをおもいだして 嫌なのか というのは、実は 殆ど聞いたことがない。
きいても 話さないのだ。話したがらないというか、聞くと 機嫌が悪くなったり、声を荒げたりするので、こっちからも ことさら聞かないようにしてしまっていた。
戦争の話しは 聞かなくてはならないと思う。聞いておかなくては と 思うのだ。
だが、母のように 話したがらないというのも あるのだ。
まったく 別の話だが、自分自身が経験してきた あまりに辛かったことというのは やはり 話せば 思い起こされるし その時の感情や思いを もう一度なぞって経験してしまうようなところがある。
だから とてもじゃないけど 人になど話せない ということがあるのだということは分るので、たまに 人から「今のうちに 話を聞いておきなさい」「一度は ちゃんと 話していただいたほうがいいわ」などと 言われるのだが・・、言いたくないものを 問いただして聞き出すのも どうなのだろうか・・と、自分などは思ってしまうのだ。
伝えたい 伝えなくては という思いがない限りは、なかなか そういう気持ちになれないのだろうと、なんとなく 諦めたような気分で 思ったりもしている・・。
もう、何を聞いても 時間が入り乱れている母の話しは、昨日のことも 50年前のことも 同じ出来事になっているし、そこにいる人たちも その時々によって 入れ替わる。
遠藤が 若いころ聞いた母の話を こうだったんだよね と たずねても、そう?いつのこと?しらないわ といったり、そんなこと 言ったこと一度もないといったり・・
だから 昨日、玉音放送のことを テレビで放送しているときに、先の話し―終戦の知らせを聞きはしたものの、玉音放送があったということは その日の夕方に 人から伝えられてしったのであって、だから 内容もなにも 全然しらなかった―という話しがでたのは、ちょっと驚いた。
なにかのときに 唐突に 話し出すのかもしれない。
ただ 話すことで その時に戻って もう一度 その体験を身近に感じるようなことがあるなら、個人的には 忘れちまったほうが・・ なんて 思ったりもしている。
人の話を聞くことは、とくに できることなら 知らないで済ませたい戦争のような話しは、現在とこれからに、すごく 重要かつ大切なことで、できるだけ聞くべきだというのは すごく良く分るのだが、
本当なら、戦うとか 利害のために殺しあうとか、そういうことを 思いつかないように、考えつかないようであればいいんだよね と 愚かしくも単純に思う。
やってみて 酷い目にあわなければ わからないなんて、我々は ずいぶんな愚鈍さの、情けなくも 惨めな生き物なんだな ・・と 「人」を 悲しく思った今年の8月15日でもあった。
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