Aurea Ovis

きょうは『金羊日』

2010年 12月

 

1 結婚式

2 愛とは・・

 

1 結婚式

 確か・・ 先月は、この12月は 寒くなる という予報に ちょっとびくついていたのだけれど・・、これまでのところ なんとか 余りの寒さにであうこともなく 過ぎてきている。

 その日は、風は強いものの日差しもよく、うっかり 寒さ対策などをして出かけてしまって、大いに後悔した。

 黒い 丈の短いジャケットは、ちゃんと 冬物だったこともあって、日差しをよく吸収してくれて、まー ほんとに あっついこと・・!
 歩きながら 手袋を脱ぎ、ブラウスの上のボタンと両袖のボタンもはすし・・、ジャケットの前を開け、まるで お日様に愛でられた旅人状態。

 歩いて ほんの15分程度のところなのに、もう ずーいぶん 歩いてきたような気分で、たどりついたところは、5人の子供達が通い、その親として足掛け10年通い続けた! スペイン系A幼稚園の修道院。・・ の こじんまりした 静かな聖堂。

 ガラス戸の中を見ると すでに 赤い絨毯がしかれ、ピンクのガーベラをポイントに 柔らかな色調の花々が あふれるように祭壇に飾られて・・、すっかり 支度の整った花嫁さんが 一人、椅子に坐って 祭壇を見つめていました。

 なじみの神父さんが せっせと準備していたので、ドアを開け おはよーございます、と声をかけると、花嫁さんも振り向いて、ご挨拶くださったので、「今日は おめでとう御座います。よろしくおねがいします。」と 言って、支度を始めました。

 その日は、いつものお仕事ではありませんでした。 つまり メイクのお仕事とは 別で・・
完全 ボランティア。結婚式のオルガニストとして 参加したのでした。

 先月の末に、急なんだけど と 頼まれ、なんで わたしが?と思ったら、葉山で ちかいからさ、なんて もんのすごーく ライトな理由で、ことは決まり・・

 まぁ、おめでたいことではあるし、こんなことでもないと ウェディングマーチなんて なかなか弾かないしね、と 焦りつつ、楽しみつつ、練習しました。

 なにしろ まともな鍵盤楽器というものが 此処には無いので、お式の前々日に ちょっといって ためしに弾かせてもらいましたけれど、案の定、・・ちょっと まずい?というような仕上がり。

 自分の為ではなく、当日のお二人のために、どうか なんとかうまく弾かせてくださいと 本気で祈ってしまいましたが、もともと なんでも本番に強いタイプなので、ある程度 できたら とりあえず・・ ということで。

 当日、花嫁さんが 椅子にすわっているうしろで まず 練習と おもって弾きだしたら、なんだか やっぱり 同じところをまちがえるわけです。(花嫁さん、ちょっと不安げ・・)

 自分は たいがい 一曲のうちに かならず 間違える箇所というのが どんな曲にもあって・・、そこにかかりっきりになると 他のところが おろそかになるという ドツボにはまりやすく、あと 30分で本番という時にも そんな風でした・・・

 わー やっぱり だめだわー、ここ いつも間違えるんだよねー と言うのをきいた神父さん「だいじょうぶだよ、そういうのは 弾いてる人にしかわからない。」・・ と。

 で また 単純な自分は あ そなの? じゃあいいや、と 安心したりして。。

 なんなんでしょうねー この 軽さは・・、なんか 書いていると 情けないというか、もうしわけないというか、自分だけのことならともかく、人様の大事な結婚式だというのに・・!

 ・・ で 無事 終了しましたよー。そです。結局 本番に強かったんですねー。

 ずーっと 弾き始めてから ずーっと まいどまいど 間違えていたところ、つっかかっていたところ、いい加減でしか 憶えてなかったその箇所は、完璧ではありませんでしたけれど、”それなり”で、そして やっぱり だれもきづかなかった・・ と 思います。 ???
 (多分、聞こえてはいても 聞いちゃいないでしょう
、とくに ああいう時っていうのは

 ま いいんです、皆さん とっても うれしそうでしたし、やっぱりね、結婚式って、新郎新婦だけが ニコニコして幸せそうなら もう それで パーフェクトなわけで・・

 まわりで 子供がぐずろうが、遅れてきた人が 床に置かれた(そんなところに おくなよ と おもいますが・・)バッグを蹴飛ばそうが、まるで手持ち無沙汰そうな、それでも もちろん 神妙なお顔のご両親やら お友達やらなどが ざわざわそわそわしていようが、なんでもいいわけです。

 すっかり綺麗になったお嫁さんの笑顔と なんともいえない所在無さげな花婿さん・・(いつも思うんですけどねー、どうして花婿ってのは なんか どうしていいんだか みたいな顔してるんでしょうねー???) そんな二人が 並んでたっているだけで OKって感じになるんですから、ほかのことなんか ほんとに どうでもいい。

 12月にしては あったかい、きれいに晴れた日に、幸せそうな二人の ほんのちょっとのお手伝いが出来たことは、すごく 幸いなことでした。

 ちいさな聖堂でしたし、いらした方たちも それほど 大人数というのでもなかったので、一緒に写真を と いわれて・・、あら・・そんなつもりじゃなかったから、それなりメイクなのに と おもいつつ、そーですか、なんて おさまっちゃった自分でしたが、いまどきのそういうお写真って、ただ にこにこして 皆で写るんじゃなくて、拍手してるところとか、全員でVサインしちゃったりとか(もっちろん 私は致しませんでしたよ) なんなんでしょうねー、演技 なんかさせて 写真を撮ったりするんですねー。

 神父さんも 初めてだよ なんて いってましたよー。 あ 私も 初めての経験でした・・ しばらくぶりなんで、そういうのが 今風なのかと 思いましたが・・ どうなんでしょうねー???

 とにかく 晴れてお二人は ご夫婦として 新たな日々の初めの日を飾られたのでした。
よかった 良かった、いい気分でした。 いまも ですけれど。

 その後、娘の一人と 待ち合わせをして、偶然入ったレストランで、甲殻アレルギーのタコ氏には 絶対食べられない、サザエのバター焼きとか 渡り蟹のクリームパスタ とか なんてのを おいし〜く いただきました♪ 

 ふと、同じ日、タコ氏は 知り合いの方の偲ぶ会に出席する為、東京にいっていたのを思い、結婚式と偲ぶ会・・、なんか 私達の人生そのもののような、そんな一日だったなぁ・・・なんて。

 なんだか 久しぶりに ちょっとそれなりの格好をした一日だったので、もどってきて いつもの格好になったとたん、大きなため息をついたりしてしまいました。
 普段 いかに、緊張感の無い格好でいるか ・・ ですよね。

 (それにしても・・ ずーいぶんと成長!してしまったようで、着られる物が有ったからよかったようなものの、ほんと なんとかしなくちゃ・・ と 一応。)

 結婚式のオルガニストを頼まれてから、ほんの2週間程度でしたが、たびたび 練習のために 音を出せる生活ができて、・・ やっぱり 嬉しかったです。
 弾く生活が できるって いいな と しみじみ思いました。

 あの お二人が お式のお話のように、お互いを大事にしながら これからの人生を過ごしていかれますように と 祈ります。

 

2 愛とは・・

 『愛という言葉は 聖書の中に なんどもなんども繰り返し出てくるけれど、愛と言う言葉を使わないところでも 愛について 語っています。

 それは 憐れみとか 慈愛 謙遜 柔和 寛容、それから 忍耐とか 赦し、それから 感謝、平和・・
 
  そんな言葉で書かれていることは すべて 愛という言葉を使わずに 愛について 語っています。』

 結婚式での神父さんの説教は そんな話から始まりました。

 そうなのだ、愛という言葉だけを 追いかけると、なんか とても 決まりきった 狭い表現でしか 表せなくなって、そのうち なんだか 解らなくなってしまったりします。

 愛って どういうこと?って 聞かれた時、なんて答えたらいいのか、落ち着かない気分になったことも なんどもありますが、これからは 愛って、愛するっていうのはね、だれかを そっくりそのまま受け入れること だよ、と 言えそうです。

 憐れみも慈愛も 謙遜も柔和も 寛容も忍耐も 赦すことも感謝することも そして 平和であることも・・、ぜんぶ 対象となる人、対象となる世界がなければ、およそ 人そのものからは 自発的に出てくるものでは なさそうにおもいます。

 人が 人を愛する為には、そんな きっかけ的な思い が 必要な気がします。

 誰かを かわいそうだな、大変だな・・と思い、辛抱強く、丁寧に、優しく、嫌なことや気に染まないことをされても そうする相手のことを思いやり、ひどいことになっても赦しあい、その相手とのかかわりを感謝する・・ そうして生まれてくる平和を喜び、また 感謝する・・

 ・・確かに、理想だし 出来たら凄い、とんでもなく嬉しいだろうということは よっく解るのだけれど、 それが そうできないから 人は たびたび 悩み苦しみ、傷つけあって 涙するわけです。

 『結婚したら 相手を ちょっと 上にする。自分が ちょっとだけ 下になる。
人は 自分が上になろうとすると そうしたとたんに 序列が出来ます。そうすると なぜ こっちのいうことをきない、どうして これができないんだ、などなどの 不満が出てきやすくなるのです。
 二人が 仲良く暮らすためには お互いに 自分が 少し下になることを ぜひ やってみてください

 そんなことをしたら たちまち 自分の弱みに付け込まれるんじゃないか、一歩さがったことで ずっと相手は 自分を制御しようとするんじゃないか、などと 思いがちですが、そんなことはありません。

 ちょっと下になると どんなことがおこるか というと、回りの人達と 同じところに いることになるだけなのです。そこには 序列も 優劣も無い、お互いが お互いの目を見やすいところにいることになります。

 私たちの生活の中では、ちょっとさがると すぐに 誰かが 一歩上に行って、音頭をとりたがるのですが、それは 愛が無いからで、愛のあるところでは そうはならずに、一歩さがった人のところから まわりのみんなが 一緒に ちょっとずつ 底上げされるんです。

 これも 愛の奇跡なんですね』

 まぁ このままを仰ったわけでは有りませんでしたし、ところどころ あいまいなところを 自分的な言葉にしてしまっていますので、かえって わかりにくいかもしれませんが・・、とにかく そのようなお話ではありました。

 日常の あらゆるところ、あらゆる場面で、そして あらゆる言動の発端として、愛があるということが、つまり 求められてしかるべき と、思いました。

 自分も含めて 人の 全てのアクションの因み、基に、愛があるように、と とくに クリスマスに向けて 祈ります。

 

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