暖かくてやわらかい。それだけでもふっと口元が緩んでしまう。
顔を近づけると不思議そうに、でも 瞬きもせず そして臆することなく、ごくごく素直に見つめ返してくる。そしてそのどこを探しても 硬いところやとがったところのない存在は ただ無心に 常の場所とは違うところにその身をおかれても、何を案ずることもなく 当たり前にそこに在る。
小さきものは この両の腕にその軽い重みを預け、まだ定まらぬ支柱の代わりにこの胸を頼りとする。その不安げの一切ない 絶対的な信頼は、一番に頼るべき母親以外の者にでさえも まるで畏れ多いくらい 当然になされるため、抱くほうは ますます感にたえない。
9月に入ってから通ってくださっている方は、毎回 6月生まれのかわいい赤ちゃんを連れていらしてくださいます。私はといいますと・・、もうああしたかわいい存在には どうにも抗いがたく、つまり放って置けず、「こんにちは」と同時に手が出て、気が付くと腕に抱いています。
どうして こんなにかわいいと思ってしまうのか まったく本当に わかりませんが、また その赤ちゃんも とんでもなくご機嫌で 泣くことだってあるのですが、私は一向気になりませんし、彼女の泣くも笑うもそのいちいちが 愛らしくて いくら眺めていてもあきません。
自分の子育て中には それこそ そんな風に思うことなど、自分の気持ちや体に余裕のあるとき以外 あまりなかったようにおもいますし、とくに 私の場合は 人数的な問題もあって、それぞれの細かいことへの記憶はかなり曖昧になってしまっていて、写真を見ながらででもなければ思い出せないことのほうが多いくらいです。それでも あの赤ん坊と呼ばれる時代を 次々と独り占めしてかわいがれたことの幸いは、本当にいつまでも忘れられませんし、思い出すたび 気がつけば一人微笑み、その甘やかな思い出は まるでのどかな春の日に桜の木の下を歩くような そんな幸せな気持ちにさえしてくれます。
それにしても なんという不思議な存在。なんという無垢なありようなのでしょう!
そして なんという不思議な感情を喚起させる存在なのでしょう・・。
赤ん坊は 人の手を必要とします。特に人の子は ほとんど未熟な状態で生まれてきますので、外見は出来上がっているとしても 生まれてからしばらくは まだまだ とても一人でなんかでは 生きて行けません。その世話は ほとんどその親たちが行いますが、「かわいい」というイメージは、実の親でなくても その大変な世話を 緩和して余りあるほど 大いに意味あるものなのですね。
私は その日 とてもひどくコレまでにないほどの後悔で 打ちひしがれ、いったい 今日はまともに仕事などできたものか と たまらない不安で息が詰まり、なんとか いらしてくださる方とだけでも 平静な状態でお目にかかろうと そんな悲壮な思いにまでなっていたほどだったのですが・・、あの小さくて暖い 柔らかな体を抱きとめ、そして 何の懸念も躊躇もなく ただ喜びのゆえに笑顔する あのあかるく素直な表情を見、その愛らしい声を耳にすることで、どれほど その重く苦しい思いが慰められ 心が温められたことか・・。
あらゆることに人の手を必要とするにもかかわらず、彼らは 世話するものたちに 惜しみなく、そのすべてを持って、確かに自分が忘れられてはいずに 慰めを受け慈しまれても良いのだ ということを実感させてくれます。
この「小さきもの」たちには 愛してもらいたいとかかわいがってほしい、大事にしてほしいなどの「あれして、これして」という 自分のための目的 要求がいっさいない。自分の存在することにすら まだ自覚もなく、悪なるものもなく ただ ここに在れと送られたところに従順に在る。その様を見るたびに、私は 彼ら「小さきもの」の大いなる存在意義を 畏怖の念を持って 感じ入り抱きとめるばかりなのです。
その日は すべての存在は愛されて在る という言葉が、胸の奥底にまで深く 強く 何にもまして しみこんで行ったような気のする日でもありました。
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