ひつじ小屋にはテレビがありません。(当然 オリンピックも見られません。)
仕事するところなので必要ないのですが、この夏は 酷暑でお客様の足が遠のくと、そうそうパソコンばかりもいじっていられないので、やるべきことをしてしまった後は暇になり、テレビでもあればオリンピックを見るところですが、ないので、そうするとし始めるのが、手軽なところから掃除、洗濯、片付け物に物の移動。
でも やっと朝晩がすごしやすくなった近頃ならともかく、それまでの猛暑では、ただもの思うというだけでも労力が奪われるようで、もう そのほとんどの日を(人がこないとわかっている日などは)24時間、「暑い!」を連発しつつだらだら過ごしていたのですが、さすがに これでは・・と感じ、つと思いつきで始めたのが、針と糸を使うこと、つまり 縫い物でした。
若い頃は 本を見て書かれたとおりにやれば、それはそれなりにきちんとしたものが出来上がっていましたが、もうここまで来て それも片手間、時間つぶしですからね、そんな律儀なことはできません・・(って何の言い訳にもなってないですね)ので、型紙も何もなく、ただ きっとこうなるに違いない という何の根拠もない確たる自信?に導かれ、出来上がるはずの結果を想定し、逆経過をたどりつつ行うという、妙にして面倒なことをしているのですが、自分ではちょっと面白い実験のようで それなりに楽しんでやっています。
縫い物というと思い出すものに、自分の記憶には薄いのですが、親から聞けば随分と可愛がってもらったという私の母方の祖母の作ってくれた 黒地に色鮮やかな手まりがぽんぽんと楽しげに弾んでいるような模様の綿入れがあります。
母は 4人兄弟の3番目で女一人という立場だったので、結婚して表に出れば、祖母としてはやはり長男のお嫁さんへの気兼ねもあって、そうそう足しげくこちらに通うなどできないでいたようですが、ある寒い日のこと、久しぶりに訪れた祖母は、ほんの一泊しただけでいそいそと世田谷の家に戻ることになりました。
そろそろ祖母がバスの時間を気にし出した頃、「ゆみちゃん、これ着てくれる?」といって着せ掛けてくれたのが、その手まり模様の黒い綿入れだったのです。
祖母がきたときは、荷物の中にそんなものはありませんでした。つまり、やってきたその日の晩に、きっと母と話をしながらせっせと手を動かして、一晩のうちに縫い上げてくれたのです。
まぁ 小さな人のものですし、なれた人ならたいした手間でもなかったのかもしれませんが、外孫へのものをお嫁さんの見えるところで作ることへの気遣いもあったかもしれませんね。
バスの時間だからと、ろくに話もしないうちに祖母が行ってしまうとおもったからなのか、それまで寒いから見送らないといっていた私は、急いで手まりの綿入れを着て、あとからバス停に走りました。祖母は母と話しながら、ちらちらと私を見ただけで、来たバスに乗っていってしまったのですが、黒地に色々な色の手まり模様など、着物感覚であれば普通かもしれないその色柄が、その時の自分にはなんとなくちょっと大きな人―チャントした一人前として扱われてのことのような気がして、うれしかったのを思い出します。
もともと 自分で何かを創り出すということを すごく面白いと感じるほうではありますが、小さい時に身近な人が、そうやって見る間に物を創り上げ、ただの素材にしか見えなかったものが、いくつかの過程を経てあるものに変化していくのを間近にみれば、できることなら自分で!と思わないわけはありません。
私も子育ての時は、子供の人数が多かったということもあり、いちいち買っていたらとてもじゃないけれど経済が持たないという理由で、随分と衣食のものは、自分の手で作ったものですが、それを見ていた子供達は、結局 大人になった今、なんだかんだと悪戦苦闘しつつも それぞれの得意分野で、物を作ることを億劫がらないようになりました。
たいした親でもなく、今は子供達からアレコレ気にしてもらう立場になってしまいましたけれど、それだけは体作りと共に子供達に残せたものだったかな と少々慰めるように思いながら、今日もまた 次は何を作ろうかなと考えています。
|