ひつじ小屋の風景 56 桜並木の下で
3月下旬、桜が咲き始めました・・。すこしずつ―目にするたびに、見上げる木の花房の色みが増して、そのあたり全体が 柔らかで淡やかなぬくもりに包まれていきます。
今日は ひとつ手前のバス停で降りて、咲き始めた桜並木の下を歩いて帰ってきました。
低い枝は 頬をかすめ、鼻先といわず 体全体に あの香りを贈ってくれました。
桜は 咲き始めてひと月など 決してどの木も咲き続けません。早ければ一週間後には その愛らしい花びらをすっかり散らしてしまっています。でも、並木のような何本もの桜たちは、順次咲きついで、しばらくは 私たちの目や心を 慰め 楽しませてくれます。
その桜の木の下を歩きながら 浮かんできたのは、シューベルトのアベマリア。
それも『イル・ディーボ』の ドラマティカルなラインの でした。
ご存知の方は多いと思いますが、私はつい最近知りまして、というか これまでも何回かプロモーションビデオなどを見て知ってはいたのですが、珍しくそれほど気にも留まっていなかったのですね。しかし 先日 ただ聞き流していたラジオから流れてきた彼らの歌声を聴いて、もうすこしちゃんと聞いてみたいと思い、連れ合いに頼んで誕生日プレゼントにしてもらいました。
(私は プレゼントといっても この程度のものしか 思い浮かばないほど安上がりな人間です。)
スペイン、スイス、フランス、アメリカの各国で、それぞれ別々にそれまでの研鑽を積んできた彼らは、3人のテノールと一人のバリトン、音楽学校などで基礎を学んだり、世界的に名を知られた音楽家たちに指導を受けたという人もいれば、ポップス界からやってきたという人もあり、個人でも当たり前にプロである彼らは、2004年も終わるころ、イギリスからグループデビューして、今 まさに世界に向けて その朗々として迫力のある美声を幾倍にも増しながら発信し続け、ついでにちょっと遠藤まで引っ掛けてみてしまった?というわけです。
「僕たち、国連みたいでしょ。」と彼らのひとりが言ったということですが、育った国も学んだ場所も、食べてきたものや環境、習慣もちがうそれぞれが、ひとつになって いくつかの国の言葉で唄うということは、考えてみれば、とても意義のあることだと思います。
私たちは、大変あいまいな生き物です。
完全な善人も無く、恐らく(わかりませんが・・)全き悪人もなく、例えば自分ひとりを思っても ある事象に熱意を傾けたり、何かに一生懸命に心から愛を持って取り組むことをしながら、ひとたびそれが済むや、混んだ駅の改札をふさいで出口をひとつだめにしてしまうような人に対して、まったく・・と舌打ちしたり、サービスの悪さに言わなくても良い言葉を発してしまうようなこと、誰にでもあると思うのです。
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Photo by C.
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つまり、一瞬一瞬の連続が一生というのに、その一時が移るたびに、我々の心は善と悪の間を行き来しつつ、始終その曖昧さに後ろめたさも感じながら生きている というのが、多くの人々の実際といえるのではないかと思うのです。 |
言葉が違い文化が違う。育くまれた地も受けた教育もちがう人たちは、自分たちが知らないというだけで、自分たちの知っている人たちの何千万倍もの存在としてあります。
上のほうの人たちだけで慎重に国交するも、我々レベルでのそれが行われるとき、結局いくつかの娯楽などを通して知ったりできたりすることが多いのは、それを受け入れるに難しいことが要らない、つまり 誰にでも 受け入れやすいものだからのような気がします。
心を行き来させるというのは、同じ言葉を話し、同じ生活を一つ屋根の下でしていたとしても、悲しくなるくらいできないこともあるというのは、いくらもありますよね。
そうおもえば、単に話す言葉が違うというだけで、わかりあうことの困難さや壁を感じることがあったとしても それは仕方のないこと、当然とも言えることでしょう。
それでも 私たちは、この青い星の上に"ひとつの生き物"として在ることを思い、これまでも そしてこれからはもっと、できる限り互いを受け入れあうための努力というものを行い続ける必要があると思います。なぜなら、それを怠ってきたために、絶えず争いに巻き込まれる'我々'が過去にも現在にもいくらもいたし、また 今もいるからです。
桜並木には、あまりのきれいさに途中下車し、桜吹雪の歓待を幸せに受けながら末息子の入園式に二人そろって大遅刻した思い出もあるのですが、今後、桜並木の下を歩くときには、イル・ディーボのアベマリアを思うのも、いいな・・なんて思っているところです。
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引っ掛けて破れたシャツの
良いところだけとって手持ちの布とあわせ、
ランチョンマットを数枚。残っている布で
子供用コースターを作りました。
マットはミシンを使いましたが、
コ
ースターは '思いっきり雑に'と縫った
手縫いです。
縫い物に限らず料理や
遠藤の生業なども含め
"手で作ることは心の仕事"と言う
三女の言葉を 確かにと思う一時でした。
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『エレの引き出し』
ひみつのいえ B
ちいさいこどもたちと いちわといっぴきからみると、とてもとてもせのたかいひとだったので、マントをきたそのすがたは まるで やまのすそから てっぺんをみあげているようでした。
「あ・・こんにちは。」 ふたりは すこしおびえて小さなこえでいいました。
はととひつじはかおを見あわせて くすっとわらい、そっといいました。「だいじょうぶだよ。こわい人じゃないから。」
「ここをあずかっている人だよ。」
そのへやには 大きなテーブルといすがひつようなだけあったので、みんなはテーブルをかこんで いすにすわりました。
「かがみのみずうみのいえや ゆめのいえに いってきたんだって?」
まんとのひとがきいたので、おにいちゃんは
「はい、いってきました。」と できるだけ小さなこえで こたえました。
マントの人は かるくうなずいて すこしわらったように見えました。
そして どこからきこえてくるのかとおもうような ひそやかかなこえで そっと はなしはじめました。
「ここは、ひみつのいえといって、たくさんのひとたちのひみつがたいせつにしまわれている。」
おにいちゃんとえれは ちょっとびっくりして ひみつがしまわれている? と ききかえしたかったのですが、ひつじたちが くちにゆびをあてたので だまっていました。
つづく・・
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