『それ』を見つけたのは出先からの遅い帰り道、川沿いの、いつも通らない道を、たまたま選んで歩いていたときのことでした。
バスの通る広い道をちょっと入っただけなのに、川に沿って歩き始めたほんの数メートルで、後ろにおいてきた車や人の喧騒は、不思議なくらい遠くなっていました。私の歩いている側は、昔からの家並みのままのような雰囲気で、なにしろ街灯らしい街灯もなく、向かい側に立ち並んだ今風の丈高い家々からの灯りがその代わりをしようとはするものの、川面にそれが落ちるでもなし、ちょっと古風な脇道風情ではありました。
後ろから 自転車の近づく音がしたので、道幅を少し取った車寄せのようなところに
体を移して自転車をやり過ごし、ふと 川辺に目を移して、・・『それ』を発見したのです!
『それ』がなんだか 知りたいですか?勿論、教えますよ。でも、ちょっと推理してみてくださいね。
その川には 二股に分かれるあたりに、堆積した土砂を覆う植物が生い茂っているところが流れから取り残されたようにしてあります。そして、大きな欅の木も川の両岸に数本ずつあります。月が雲に隠れるような日でしたから、最初にそれを見たときは、ちょっとまばらに花をつけた木蓮のように思えもしました。いや、しかし、やっぱりそれではあまりに大きすぎます。川沿いの暗い夜道に立って、じっと目を凝らしていると、かすかにそれが動くのがわかりました。さらにじっと見つめていると、そのうちのひとつが 突然ぱっと飛び立ったのです!!
(ここでわかった方はすごい・・!あ、わかりました?)
何しろ、暗い中でのことでしたし、色もそれとわかって 初めて"白"といえたのですが、
『それ』は、じっとしているときとは違った優雅な姿を、暗がりの中であってさえも示しつつ、無音の闇に溶け込んでいってしまいました。 (わかりましたね?そうです。それです。)
川沿いのわずかな明かりの中で、たたずむばかりの大木は、長い長い時間そこに在ることで、幾多の命の安全を見守ってきたのかもしれない、と思ったら・・、なにやら胸の中に、暖かな水の満ちるような思いがして、例えば、これが自分であって、そこに自分がいるというだけで、このありようのまま利用してもらったがために、それが誰かの安心や安堵になるようなことがあったら・・! そんな思いになりました。
しかし、私たちは 自分の人生を、生きている毎日を、どのように、どれほどまで作り上げられるものでしょうか? それが できたかできないかで、その人の価値の有無を問われるものなのでしょうか?
いいえ! 私は、きっと私たち一人一人が、あの樹のように、そこに存在するということで、自分の気付かないうちに、誰かのための"良いもの"にしてもらっているときが、一生のうち、どこかで必ずあるのではないか と思うのです。
だから、だれも何の役にも立たないなんてことないし、生きていても意味がないなんて事もない、目に見えた役立ち方をしないのはだめだなんて、誰にも、誰にも!言えない というメッセージを、私は あの日、あの大きな欅の木から受けました。
生まれること、生きていくことは、我々の思いを 限りなくはるかに超えた"人の幸いを望んでやまない豊かな眼差し"によって、「在る」のではないでしょうか・・?
だから、決して 誰にも、その人自身であってさえ、決して 命は 粗末にしてはならないと、安心しきって眠る”白さぎたちを宿らせる欅の木”を見ながら 思いました。
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