とろとろとした眠りから覚めて雨戸を開ければ、もうこれ以上は持ちこたえられないというくらいの重く分厚い雲からいきなり大粒の雨が降り出し、開けたばかりの窓をあわてて閉めているうちにざんざん降りになり、果ては稲光と雷鳴の轟き・・なんていう、まるで早送りの映像でも見ているようなめまぐるしい空模様の今朝でしたが、そんなことはそれこそ明け方の夢だったかのように、今、あたりはさんさんと降り注ぐ日の光と穏やかで優しい風のそよぎとすがすがしくみずみずしい空気に満ちています。
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一雨ごとに春になると言いますが、確かに こんな日はそれを実感しますね。 たっぷりと水を含んだ土の香りや木々や花々、そして それを喜ぶ風に遊ぶ小鳥や蝶たち。
日差しの中の彼らをただ眺めているだけで、今 ここにある幸いに感謝してしまいます。 |
洗えるものをかき集めての洗濯物を盛大に日を当て風にさらし、家中の窓という窓を開け放っての念入りな拭き掃除をし、お風呂場をがしがしと磨き上げるなどという一連の作業は、やって大満足の大変安価な「ちょっと幸せ」になる方法(自分にとっては)ですが、その後の、おいしいお茶と焼き上げてストックしておいたハート型のバタークッキーがあれば、それは、先の「幸い」と「大満足」をもう少し膨らませてくれるというものです。

普段、雑誌を殆ど読まないのですが、たまに待合室のあるところで手にする雑誌には、いつものことに手を加えたり、見方をかえた"ほら、ちょっといいでしょ?"風のこぎれいな、まるで住宅展示場みたいな写真がどれにもあって、確かに見ていてきれいでいいなぁとはおもいますが、なにかに書かれていたように、そこにはまるで生活感が無く、自分には そういう「人の気配の無いうそくさいわざとらしさ」からは 具体的にそこに住む人を思い描くことができません。
片付けられない症候群のようなあれほどの凄まじいゴミなどの散らかしようは言外にしてもってのほかでですが、個人的には適度に整理され、普通にその辺にものが置きっぱなしだったりして、人がくるとあわてて取り繕いながら適当に片付けるようなくらいが、たぶん当たり前で自然な日常生活だろうと思っているので、あれは人の憧れをくすぐるための演出だとわかってはいるものの、見るたびに 妙な感じがぬぐえないのです。
生身の人の毎日があるわけではないからですよね。

人というものは、自分の日常生活を背負って生きているようなところもあり、それは その人の身に着けているものや、その手入れ具合、扱い方などから察することもできますが、ある方などはつつましく暮らしながらも、多いとはいえない身の回りのものを、丁寧に手入れしつつこざっぱりと整えておられてすがすがしく、どこそこの何を着ることなどないのに、風格や時に色香や豊かな人柄さえも感じ取ることができます。
反対に、どんなに良いものを着ていても、その人の日常が雑であれば、不思議なことに、それは何かの折に簡単に察することができ、人というのは 全く面白い生き物だなぁと そのたびに思うのですが、後者の場合、演じきれず取り繕えないままに人にあったりすれば、それは どこかで自分以外を軽んじていることにもなり、早晩、その人の正体そのものも あっさりと明らかになるでしょうし、そうなれば たとえそれが大事なお付き合いであっても、それ以上にはなりにくいほど、人の「暮らし方」は「社会性にも関わる」とも言えましょう。
どんなに悲惨な人生でも毎日が悲惨なのではなく、その中にも微笑むことや嬉しい発見などが必ずあるのは、思い返せば誰にでもうなずけることと思います。人は だから生きていけるのですが、一般に たまの喜びよりは大変さの記憶のほうが鮮明になる傾向がありますね。 |
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そんなときに、自分で自分を引き上げる簡単な手っ取り早い自分なりの方法を持っているのは、人をうらやんだり、無いものねだりをして心を貧しくする事から自分をぐんと遠ざけて「ちょっと幸せ」&「人を大事にする」自分になれるような気がするし、それは心地よくゆとりを持って暮らすには 多分必要なことではないかと思うのです。
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