Aurea Ovis

きょうは『金羊日』

2009年12月

1 「今」しかない

2 きれいな肌=幸せな気分

3 「クリスマス」リレー

1 「今」しかない

 12月になっている。・・・

 別に 時の流れに 区切りなんてもの、有史以来一度もあったためしがないっていうのに、なんで 年末になると こう・・なんというか、あー もー 今年も 云々・・・って なるのかなぁ・・ と 毎年思ってしまう。 
  結構 古めの人間だから、なんとなく DNAレベルで そんな日本人が染み渡っているのかもしれないな なんて。

 現在の日本は 世界的に見ると かなり平和な国のようだ。
それでも、様々に 妙な事件や凄まじく腹立たしい事件やら あきれるようなとんでもないことなどが 日々メディアを通じて知らされはするものの、でも 殆どの、事件の外にいる人々には それは やっぱり自国の中のことであっても 正直、それは他人事のうちではある。

 これが 現在戦争中なんていったら ごく一部の人たちを除く、その他大勢組みの一般人なる自分などは、かなり緊迫と恐怖と不安で、日を数えることさえ忘れ、自分を守るために あれもこれもすっとばし、見向きもせず、その内 感覚なども麻痺していくのだろう。

 毎日に、国民の殆どが飢えたり、不安や恐怖に怯えおののく日常が、この国に半世紀以上もなかった という平和ゆえの長寿大国日本なのだろうとおもう、そこに 様々な問題があったとしても・・。

 自分が『平和が日常ではない』という日々を、生まれてから 今に至るまでずっと経験してこなかった という、このものすごい幸いを、最近 とみに強く実感している。

 このところ、ご年配―それも かなり―の方、三人ほどと身近になることがあって、先のようなことが思われてならない。

 ご高齢の方たちのおひとりは 年が明けると同時に100歳になられる方。もうおひとりは 現在 101歳の半ば。そして もうおひとりは84になられるのか・・、まだまだ 現役でお仕事されている方だ。

 年明けに100歳になられる方は、実は 私の、なくなられた最後のピアノの先生のお母様で、御年90の時には、記念にとショパンのワルツを全曲CDにされたくらい お元気だった方で、現在は 家族の方たちなどに 手厚く介護されている。

 お母様先生 と 自分はお呼びしていたのだが、最初のレッスンのとき、上で聞いておられたあと、レッスン後に一緒にお茶を戴いたときに、「貴女のピアノには指先にメロディーがある」とおっしゃってくださり、今でもその意味の本当を たぶん自分は理解していないと思うのだけれど、長いことピアニストを育てるための英才教育を施されてこられた方のその言葉に、かっと顔がほてった憶えがある。

 先日、その方の娘さんになられる方と 久しぶりにお会いしてお話しする機会があり、ご様子を伺えば、それなりに暮らしております と。今は耳の聞こえに少々難があって、だから絵のもの、写真のものなどをお好みになっておられる とのことだった。

 100歳のお誕生日には なにか おいわいさせていただきたい・・・と 考えていたのだが、もう物はいらない とのことなので、お好きな猫と音楽のカードなどを と思っている。

 色の白い、ふっくらした方で、いつも前髪をくるりとカールさせて、ローズ系の口紅をつけ、お宅においでのときは、ロングスカートにストールなどを羽織り、時々そばのソファーに座って 紅茶のカップ片手に じっと レッスンを聞いていてくださった。

 先生お二人に 聞かれていると思うと、もう 緊張の極みだったけれど、雑魚がどんなにがんばっても と、開き直るように 思うまま弾けば、いつも以上の細かい、冷や汗をかくような熱心なご指導を、こんなお月謝では 申し訳ないと思うほど お二人からいただけた。

 それなのに、今は もう ぜーんぜん 練習もしなければ、弾こうともしないんだから、かつて ある人が言った「才能というのは、その人本来の才能に健康、チャンスや良い指導、ソレを受けられる経済力や環境、そんないろんな条件があって初めて才能というんだ。」という言葉に、苦いものを感じつつも 頷いてしまうのだ。

 お話しながら、そんなことなどを思い出してもいたのだが、今は、自分などには 慮ることもできないほどの年月、100年生き抜いてこられたという そのことを 心からお祝いしたい と 思っている。

 もうお一方、101歳の半ばという方は、大変にアクティブな女性で いつか当方の毎月のおたよりであった「ひつじ小屋だより84」にも、書かせていただいたことがある。

 この方は 現在、ご家族とご一緒で、衰えてもお話などは しっかりしておられるそうで、
「死ぬことというのは 生きることと同じくらい大変なのよ。」と おっしゃられたとか・・。
 
 きちんとした生活をなさりながら、なにしろ楽しむことがお上手のようで、きっと そんなことが、いつの間にかの日々の重ねを作り上げたのだろうと かってに思っている。

 この方とは 直接お話したことはないのだけれど、当方の長男が直にお会いしており、彼をして、その時の印象を「見ればやはりお年寄りではあるけれど、何しろお話することに何の問題もなくて、普通以上のものを感じられたのが すごい。」と言わしめている。

 一世紀を生きるということは、その間にあった様々な出来事を 一切 放棄しなかった ということでもあり、それは 今の自分には なんとも言うことの出来ない・・「生の勢い」とでもいうのだろうか、そんな風なものを 感じてしまっている。

 お三方の最後、84歳の方は、ずっとお独りで生きてこられた男の方。
何のときだったか、話しながら、「私たちには 過去も未来もないんです。ただ 現在があるだけなんですね。だから どんな人も、大人も子供も、老人も若い人も、どんな人も、今しかないということに気付いて、今をちゃんと 生きなくちゃいけない。」 と おっしゃった。

 コレには、うなってしまった。
「80を越えると、もう あとは 死ぬことしか考えない。明日のことなんて 考えなくなるんだよ。だから とても 気が楽。今 生きればいいんだから。」 と 私の亡くなった恩師が 言っていたことがあるけれど、ふと そんなことも思い出しながら、ああ いいなぁ・・ こういう年の取り方をしたいなぁ・・と 思っていた。

 そう、そのお独りで生きてこられた方も、同じことを おっしゃったのだ。
私たちには 今しかない。過去はもうないし、未来はまだない。だから 今ある「今」を ちゃんと生きなくてはならない、と。

 きっと その方の実感なのだと思う。そして その実感には 悲愴感などというものが 全くなくて、たぶん 当然のこと、そうなのだからそうするという、そういうことなんだろうと 思っている。

  若いと なかなか そのようには
おもえないし、実際、若くなくても 自分のようなものには、過去はともかく、これからのことなどについては 行く末を思って、悶々とすることなど しょっちゅうで・・。
  だから、未来も今はまだない、と聞いて、!そうじゃん!まだないものを 今 心配したってしょうがないや、と 腑に落ちたことは、ありがたいことだった。

 不思議なことに その方のお話は、通常は なかなか 聞き取りが難しい。まぁ 時間の経過の結果だから それは誰にでもあることで当然なのだけれど、なぜか そういう言葉は 面白いほど きっちりと聞こえてくるのだ。
 もしかしたら、分かれよ、気づけよ と そんな思いが あったのかもしれない。

 

 そんなことなどが 余り日をおかずに続いたものだから、このところのぐうたらな自分が なんとも 申し訳ないような、みっともないものに思えて、実は 暫くへこみっぱなし状態。

 一旦 腑に落ちたとはいえ、実生活内で そのように納得してやれるかといえば、これが また 小人の哀しさ、それとこれとは 別問題になってしまって・・・ まったく、である。

 思うに、きっと 先のお三方にも そんな時も あったかもしれない と。
だけど、そう、そうなんだけれど、だけど 放棄せずに日を送ってきた という、そういうことなのかもしれない・・なんて 自分に都合のよいように考えたりもしている。

 先日、友人のあかちゃんに会いに行った。まだまだ 一年にもならないのに、元気に活発に動き回って、ないたり笑ったり 忙しく表情を変えては、まわりのだれかれの差なく、幸せを振りまいていた。

 彼女に どれほどの時間がプレゼントされているのかは分からないけれど、自分もかつては そうであり、先のお三方も かつてそういうときがあり、その時には、今現在に至るまでの時間の数なんて 思うことすらなかったはずだ。

 そして、そこに なんの不安も なんの思い煩いもなかったはずだ。その時は 毎日があたらしく、毎日が未来で、毎日が発見や経験の喜びの連続だったはずだ。

 毎日喜ぶというのは、正直 難しいと思うけど、いちいち 拾い上げるほどでもないような ちょっとした嬉しさ、楽しさ、うきうき感なんてのは 割りにあるなのは どなたも思い当たられるのではないだろうか。

 生まれて間もない人たちや良い時々を重ねてこられた方たちと比べても、比べようもないことではあるし・・と、やっと、今は 今の自分をそのように生きるかな・・という気になってきている。

 

 

 

2 きれいな肌=幸せな気分

 実に良く寝た。

本当に 暫くぶりの熟睡だったような気がする。

 昨夜の夕食には 白ワインを使った料理をしたのだが、ビンの下 1/4 強ほど中途半場に残ってしまったので、翌日の今日がビン・缶などのゴミの日ということもあり、それなら 出してしまおうと、わが胃袋におさめて空にした。

 このところ 晩酌とは縁遠くなっていたし、食事の前にちょっとおもしろくないことが続いたりして、やけとはいうほどでもないけれど、まぁ あっさりと飲んでしまったのだが、それでも嫌な気分が収まらなくて、ちょっと 上で本でも読もうと思った。

 本を広げて 半時間ほど読んだだろうか・・、やはり 腹ばいはくたびれるので、ごろんとなったとたん、すとんと落ちるように眠ってしまい、気が付いたときは 午前1時になっていた。
 あれあれ、、と思いながら、風呂に入ったり、寝る前のあれこれを片付けたりして、再び 布団に入ったのは 2時すぎだったろうか・・。
 そのまま、これもまた あっというまに 寝てしまっていたようだ。

 

 今朝、目が覚めて時計を見れば 6時半。うん いいじゃないか。ということで 起床。
連続してではないけれど、8時間くらいは寝たようだった。

 そして、通常のごとく ゴミ出し、掃除 洗濯、メールチェックなどの朝仕事をすませ、ではメイクでも と始めてみれば、これが!なんと! すっごーくきれいな肌!!の自分が鏡の中に!

 これは、なにしろ 驚きだった!
いやいや、仕事柄 十分な良い睡眠が美肌に必須というのは、当たり前のこととして認識してはいたのだが、それを こんな風に実感してしまうと・・!
 なにしろ 自分を見て、ひっさしぶりに 
わー、きれー! なんて 言ってしまったのだから・・。

 やー、ほんとに 綺麗ですよ。昼食後の今も、健康そうで、きれいな肌色だし、キメも整っているし、毛穴なんてわかんないし、綺麗だからファンデーションもあんまりいらないままだし、いつもだと そろそろ 肌のツッパリを感じ始めるころなんだけど それもまーったくないし・・!
 すごく 気分がいい!なんというか やっぱり こういうのを『幸せな気分』というのだろう。

 つくりは ある程度のごまかしはきいたとしても やっぱり肌だ。肌がきれいでないと 何をどうしたところで、結局は「そこそこ」に落ちついてしまう。

 長年の実家通いやら娘たちのことやら、連れ合いとのあれこれやら仕事のなんだかんだやら、いい加減、くさくさどころかうんざりで、できることなら 人の気づかぬ間にフェイドアウトしたいと思い続けてきたし、最近の我が鏡は 尋ねたところで、返事も面倒がるようになるし、実際 自分の顔を見たところで、まぁ 年だし、こんなもんじゃないの、くらいの感覚だったので、とくに 今以上をねだろうとか 求めようとか そういう気すら起こることもなかったのだけれど・・、

 これは! すごい・・。ほんとに。ただ 寝ただけ。ただ ぐっすり眠っただけ。

 勿論 そのまえに 通常のお手入れはしたけれど、でも 特にいつもと変ったことはしていない。それなのに、いつも以上に、肌がぴかぴかしていて、張りもあるし、つやもある。嬉しいことこの上ない。

 ちなみに 自分の夜のお手入れというのは、冬なので ☆ビタローション☆ラファンテ スキンセラムクリーム という 超簡単なもの。これで、明日はお出かけ、人前に出る なんていうときは クリームをナティブのレ・コンフォルタントにして クリームマスクする。

 それに、熟睡、しっかりした睡眠をプラスすることで、あー ここまできれいになるか!という嬉しい結果の一日を満喫できるのだから、これはもう嬉しすぎ。

 今朝は鏡を見ることもなく、下を向いて玄関の掃除などしていたのだが、いつもは 朝、ゴミ出しのために すっぴんで玄関の鏡を見ると、・・これが どういうわけか 当方の玄関の鏡というのが まるでデパートのトイレの鏡のような意地悪さで、あれもこれも 何もかもを暴露するがごとく ○○正直に事実を しっかりくっきり 映し出してくれるので、まず そこで 一回 がっくり来るのだが、(ちなみに二回目のがっくりは メイクをするときに南側に鏡を置いているため、何もかもがお見通しさ、なんてほどのトラブル満載の自分の顔を見るとき・・・) 今朝の自分は すっごくきれいですっごく気分が良くて、すっごくうれしかった!

 すっぴんが嬉しいほどの肌は、やっぱり メイクが綺麗にできる。
血色が良い=きれいというのは、やはり かなり肌作りにおいて 差を生み出すものだな と 久々によろこびつつのチェック。

 こうなると 本当に 色物の発色も美しく出てくるのが面白い。ごくごく 当然のことではあるものの、ただただ きれいがこんなに嬉しいなんて、正直 もう かなり長いこと?忘れていたような気がしている・・・。

 日常に流される(惰性とも言う)って ほんとに 恐いなぁ・・・と しみじみ思ってもいる。


 ・・ということで、今晩から しっかり ちゃんと 寝ることにした。
そういうもののようで、どうも 続けて何時間寝るということができない自分なのだが、それであっても 合計して 7時間くらいは ちゃんと寝るぞ・・と 決心した。

 ついでに、というか ひょっとして その前段階の白ワインってのが あるいは、効いていたのかもしれず・・、あとで ワインを買いに走ろうかなんて ちょこっと 心の端っこで思っているのだが・・。

 ちなみに 昨晩飲んだワインは 料理用にと思って買ったので安物のワインだ。 料理用ワインというのを好まないので、やっぱり 普通のうんと安いのを買っておいている。
 うん、その 効果も あるかもしれないなー・・^^v

 ま とにかく 皆様!
 
 きれいな肌を目指す皆様! きれいな肌の自分で幸せ気分になりたい皆様!

 今夜から しっかり寝ましょう。

 何もかも ほっぽって、なによりも 自分の「幸福にして充足の睡眠」を 是非是非 確保することを第一とすることを、心から お勧めいたします。

 しっかり眠ってすっきりきれいになりましょう! きれいで 幸せな自分でいましょうねっ!

 

 

3 「クリスマス」リレー


 12月に
入ってから クリスマスが終わるまでは、なんとなく ざわざわと落ち着かない気分でいたりしている。

 わが国の伝統的・・な暮れの過ごし方のうちには、年末大掃除というものもあり、それもしなくちゃなぁ・・とか そういえば 風呂場の徹底掃除とか しっかり壁なども拭いておきたいなぁ、など あれこれ思いはするものの、あー もー めんどっちい・・と 一瞬でも思ってしまうと、すーっかり やる気がなくなるという、とてもシンプルな構造の感覚の自分なので、今日もまた、そんなことおもったこともない みたいなつもりになってしまっている。

 まぁ しかし、そんなものも 切羽詰れば やっつけ仕事できっとやるのだろうかも知れないし、嫌ならソレっきり。あるいは 突然天啓を受けたかのように、朝から晩まで掃除しまくるなんていうときが来るかもしれないので、とりあえず 今は 何もしないでおくことにした。

 

 先日、暗くなって 表から帰ってくるときのこと。

 今は きっと どこでも クリスマスイルミネーションを見ることは、それほど珍しくはなくなってきているが、この葉山も ずいぶんとそれらしく 夫々の家で クリスマスイルミネーションを飾っているところが増えてきたように思う。

 皆さん、とても上手に そして、これは 最近おもったことなのだが、このあたりは特に、ちょっと品の良い感じで飾り付けていて、玄関から庭や垣根や門扉などもだが、特に 出窓などのデコレーションが素敵なおうちが増えてきているように思えて 楽しみながら 歩いてきた。

 そのうちの一つに、出窓のガラスを 絵画に見立てて、窓枠から内側に 白いスノースプレーを吹き付け、中のガラス面に丸く雪の結晶の飾り物を貼りつけて、その中に 金色のガラスボールの大小を適度につけたグラスファイバーのツリー、ちいさな電球で縁取られたトナカイとそり、そして 赤い服を着たサンタクロースとぱんぱんに膨らんだ白い袋という、クリスマスのイメージがそのまま形になったような飾り方をしているところなどは、大分遠くから 楽しく見えて、近づいて 暫く眺めてしまったりした。

 また、マンションの高いところの出窓には、きらきら点滅する 小ぶりのクリスマスツリーが飾られ、明るさが増すごとに 回りに配置されたサンタクロースやかわいい雪だるまなどが、よく見えていた。

 日陰山のてっぺんに近い、山の中の家は、大きな家のそれぞれの窓が明るくされ、それぞれの窓辺に、一つずつ 赤い光や青い光、オレンジの光や白い光のクリスマスツリーをおいて、家全体を 素敵にデコレートしていたが、これも また 冷たい風の吹くなか、ぼーっとつったって 眺めてしまったくらい、夢みたい(・・正直に言えば、よくやるなぁ・・とか)に思ってみていた。

 庭木に イルミネーションライトを巻きつけるにしても、暗くなってみると どうなるのかを予想して、上手にもみの木のイメージを作ってあったり、門扉に続く柵に 丁寧にイルミネーションチューブを巻いて、前を通る人を楽しませていたり・・、本当に 上手だし、なにより、夢を持って楽しんで作っているというのが感じられ、この時季は とくに、寒くはあるものの、見ていて あたたかな 楽しい気分にしてくれている。
 こういうものを見ると なんだか 言いなぁ・・と思ってしまう自分である。


 そこに 信仰心があるかどうかとか、なんで信じていもしないものの習慣を取り入れるのかとか、まぁ 言いたい向きには いろいろあるだろうが、それはともかく、まずは たのしもう という気持ちが形になるということ、そしてそれが見る人の気持ちを暖かくするということ、なにより、その過程を 作っている人が楽しんでやっているということ、(まぁ たまには 見得とか習慣とかで がんばっちゃったり、去年よりもというプレッシャーがあったりするかもしれないけれど) そんな人の思いを見て感じることができる という、それが 自分には いいなぁ・・と 思ってしまえることなのだ。

 なにもここまでしなくても とか もう少し控えめでもなんていうのも、以前はあったけれど、今年のこのあたりのクリスマスデコレーションは、全体に 品もあるし、楽しんでいることが見て取れるようなものが多かったし、そして 夫々が みな とても 美しいのだ。

 こういうイルミネーションを クリスマスが終わったからといって すっかり取り払ってしまうのが、たぶん 日本の通常ではあるが、キリスト教国では 正月というイメージよりも クリスマスのほうが大きいので、年が明けた 最初の日曜くらいまでは、クリスマスが続いているのが普通だという。
 そして、最近のこのあたりにも ソレが見られてきていて、クリスマスが終わった→片付け→正月飾り、とあまりならないのも おもしろいと思っている。

 まぁ どんな理由があるにせよ、通り道が明るくなり、かつ 楽しみながら歩けるのは、冬の冷たく寂しい夜でも おそくまでの仕事から戻る人たちには、暖かな光と伴に、お疲れ様のメッセージにもなるのかも知れず、それはそれで とても 素敵なことではないだろうか。

 クリスマスを意識して、わくわくして その日のために準備する・・それだけでも 十分クリスマスを祝っているように思えている自分だが、ずっとまえに、神父になった友人が かつて こんなことを言っていたのを 思い出した。

 「日本の一番端っこの教会で 夜中にミサが始まり、それをリレーのように時間差で 世界中の各国の教会で、次々と深夜のクリスマスミサが行われるんだっておもったら、地球全体で クリスマスをお祝いしているって思えて 嬉しかった。」

 24日の夜中から 25日の間中、地球の自転にあわせて 途切れることなく クリスマスの祝典が繰り広げられ続ける・・。 
 なんとも 壮大で 素敵なことではないか・・!!

 そして その壮大な祝典の中の、ちいさなちいさなひとかけらとして、自分が見てきた この町の、それぞれの家の窓明かりもあったのだ

 私たちは、何も知らずに、なにも理解しないうちに、祝うべきを祝うという幸いに 恵まれているのだということに、気付く瞬間だった。

 今年、そして これからも 良いクリスマスであるように・・!

 

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