夜回り先生こと 水谷修さんの講演を聞かれた方のブログに、あるシンナー中毒だった少年の話がありました。
貧しい母子家庭のその少年は、五年生のときに 母親が寝込んでしまい、学校では いじめを受け、6年のときに 暴走族に入ってシンナーを覚えて4年経ち、一時 水谷さんの家で 一緒に暮らしたということでした。
水谷さんのところでは シンナーはやらないのに、家に戻ると吸ってしまう。その繰り返しで、あるとき 少年は水谷さんに「薬物止められないのは薬物依存って言う病気なんだって。
病気は病院へ行かないと治らない、水谷先生じゃダメなんだ。」といって、専門の病院に連れてってくれるように 言ったそうです。
水谷さんは むかついて(と書いてありました。)「今日は無理だ、来週連れてってやる。」
と 突き放し・・ 先生に拒否されたと思った少年は その4時間後、シンナーのオーバードーズの末に ダンプに突っ込んで命を絶った、とか。
火葬場で 水谷さんは ぼろぼろになって拾うことも出来ない灰になった彼の骨を、手でかき集めたそうですが、後日、薬物治療の専門家と話しをした時に
「愛の力では ドラッグはやめさせられない。先生、あんたが彼を殺したんだ!」
と 言われたそうです。
先日は 娘のひとりの 月に一度のクリニックの日でした。
いくつもの病院を訪ね歩き 一年半まえ、ようやく ここなら と 思われるところで治療を受け始めた娘でしたが、相変わらず 外出時は 苦痛のようだし、用を済ませて戻れば戻ったで 疲労でくたくたという そんな具合ではあります。
薬の長期常用については、不安も多々ありはしますが、今のところ、当の本人は 薬の効果を かなり実感していて、今までのわけの分からない不安感や焦燥感がなくなっていることや、理由なくむかついたり 怒鳴ったりしていたことが、なぜ それほどに感じていたのか と 思えるようにもなっているということで、それに おもねるというほどではないものの、できるだけ心穏やかに暮らすために と 自発的に 服用を続けています。
それでも 娘自身、いつまでも薬に頼っていても という気持ちはあるようで、前回は 先生に すこし薬について 相談したそうです。
先生は、今 大分良い状態になって来ているのを実感している、ただ、暑い時季に落ち込むというのであれば、この時季に すぐ 薬を変えたり減らしたりは しないほうが良いだろう、後ひと月 様子を見て それから 又考えましょう と言ってくださったそうです。
この娘のことでは、身内での言い争いが絶えず、ことに おととしの冬には 弟と嫁いだ娘夫婦から、老親への気遣いもあって、とにかく 出て行け、ソレが出来なければ 施設に放り込めということで、かなりの混乱状態になったことがありました。
〈言われても仕方のないようなことを言ったりしたりはしてきてはいましたし、親の自分自身、そういう娘を抱えて どうしてよいやらで、ただ会えば話を一方的に聞くばかりという そんな対処的なことで 済ませてきてしまったということも、それを言われるちなみにあります)
いまだに それも続いているのですが、その大騒ぎの後、さすがに娘本人もなにか行動しなくては と思い、親の捜してきた 何軒目かの今のクリニックへ 重い腰を上げて出かけていった という経緯があります。
本当に ありがたいことに、万に一つといってもよいほどの相性の良い先生に担当していただくことが出来て、事情もよくご理解いただき、治療を開始することが出来、当初の先生が辞められた後も、よく引き継いでくださって 現在も続いています。
弟は 施設の職員をしているので、こうした事情にも精通しているため、「彼女は決して病気なんかじゃない。ただのわがままなんだから、そんなことに 病名をつける医者なんか 自分は認めない。」といい、なにしろ「親の愛情不足と勝手がまねいた結果」だというばかり。
娘の状態が良くなってくれば、「事情が酷くなってきて どうしようもなくなったからと、ようやく一緒にクリニックに行ったりすることで出来てきた親子の行き来きで良い結果になって来ているだけで、薬がきいているなんていうんじゃないんだ。薬なんかなんの意味もないんだ!」と 言ってはばかりません。
やれば そうなることを ずっとしないで こんなにしたのは あんた(遠藤)のせいだ と。
ま そう言われて、反駁するほどの気力もないし、まぁ あたらずとも遠からずですし、黙って聞いていましたが、あとで それを聞いた娘は こういいました。
「こういう薬を飲んだこともないものが 何をいってるんだ。確かに薬の効果はある。実感している、だって 生まれて初めて、今まで いらついてしょうがなかったことが、どうして そこまで騒がなくちゃいけないことだったのか と思えるようになって来ているし、とにかく 呼吸が楽。それは いままで 殆どなかったことなんだから。そういうこともしらない人間が 単に情緒だけの問題として こういうことを扱ってほしくない。」
彼女自身、たしかに クリニックに通うということや、そこへ行くための外出などは、今も緊張し、困難を感じているために、やはり ひとりでではなく、身内の気心知れた相手といっしょに行動することを条件としてはいますが、電車に乗って というのでなければ、最近は どうしてもの必要に迫られると、たまに 買い物袋をもって 夕闇にまぎれて ひとりで スーパーへ出かけたりすることが出来るようになってきました。
ここまで来るのに 1年以上 かかったのです。
もっとはやく そういうグループや医療機関に出向いていれば というのも 幾らもありましょう。おかしいな とおもったときに さっさと向かい合っていれば というのも 勿論 ありましょう。それは 過ぎてしまったことについて あれこれいうという すべてのことに共通する 言い訳でしかありません。
すべての物事には『時』がある というのを 私は信じているので、その時が 長い流れのうちにあっては、いちばん その人にとって、あるいは そのこと(またそれに関わるすべて)において、良い時だったのだ と 思っています。
一方的に 物事を、とくに 人に関わることを 見て裁断することは いけないと思うのです。だって どんなことも「その人」だけを中心に物事が進んでいるわけではないのですから。
ソレに関わる すべての人や物事をかんがみても それが その時に行われる必要というのが あるのだ というのが 遠藤の考え方です。後悔することも、ですから あまりないといえるのかもしれません。
痛いものも 辛いものも、嫌なものも 見たくないものも 聞きたくないものも、したくないことも、そうしたこと一切について、誰一人 なんのきめつけをすることはできないと思います。
(落ち着いて考えてみれば かなり遠慮がちな構え方ですよね・・、そんなこと 言っているうちに 大変なことになっちゃうなんてこと 幾らもありましょうよね。 こういうのも ひょっとしたら 性格的なものなのかもしれないですね。)
ただ、大切なことは、断罪しない ということだと思います。
どんなことが起こったとしても、それが その人のせい、確かにそうであっても、ただ その人だけのせいでおこったのだ と考えるようには なりたくないと思っています。
様々なことが重なり絡まり、いろいろな人が関わって、そして そういう結果になったのだ という それを あらゆることにおいて 認識していないと、ただ一人の人に 何もかもを押し付けることになりましょう。
でも だからといって それで ものごとは解決しないことのほうが多い、ということも 私達は しっておくべきであり、理解しておかなくてはならないことだ と 思うのです。
人を非難し断罪することは 誰にでも出来ます。でも ソレはあえてしない。
それは ある意味で 人を許すことにもなりはしないだろうか と 思ったりもするのです。
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