「あと4ヶ月」なんて言っていた8月が あっという間に過ぎてしまいました。
一体 自分は 何をしていたのやら・・と なんだか 妙に むなしい気持ちになったりするのは、はやくも 夏らしい暑さが遠のいて この数日の朝晩に 急に虫の音と伴に 涼しさを感じるようになったからでしょうか・・。
でも まだまだ 日中は 動けば汗ばむこともありますし、近所の幼稚園では 運動会の準備に忙しそうで、前を通れば かわいい歓声が そこだけお祭りのように一杯です。

そんな先ごろのこと、連れ合いのタコ氏、出先から 1mくらいの長さの発泡スチロールの箱を抱えて戻ってきました。
なんでも あまったから といって、渡されたとのことで、蓋を開ければ 体長70cmほどの立派なカンパチが氷水の中に・・!
大変、ほんとに ものすごく ありがたく、こんなことは まず もう二度とはないだろうと 思いました・・・が しかし!なのです。
実は 遠藤、魚を捌けません、いえ まな板の内に 乗り切ってしまうような大きさのものなら なんとか 頑張れるのですが、なにしろ これほどの大きな丸ごと一尾ってのは・・、とても苦手、というか、とても できないよ!と 怒り放ってみたりしてしまいました。
それにしても、この 大きさ!この胴体の太さ・・!で なにしろ 重い・・。どうしよう・・・!
大体 まな板になんか乗り切るわけもなく、流しの中にだって 収まらないんですから。
でも ほうっておくわけにはいきませんしね、途方にくれて 半分パニックになって、なんで 自分で出来もしないようなことを 人にさせるのよ!?と タコ氏に文句を言いながら、とりあえず尻尾をはみ出したまま、頭の部分を斜めにして 流しにギュッ。
タコ氏、ようやく しまったとおもったのでしょう、僕がやるから、僕やるから、と ネットで調べたようにやろうとする・・。
(
あのねー、書いてあることと 実際は まーったく違うんだよー。)
ま 見ていたところで、やっぱり 何にも分かっちゃいないので、結局 こっちも手を出さずにはいられないのですけれどね、とにかく、まず えらの下に包丁を入れて、なんて おもったのに、当方の所持する包丁は 菜切り包丁なんでねー・・ 入りゃしないのですよ。
料理バサミを取り出したり、刃のあて方を替えたりして ようやく切れ目を入れたものの、そこから先へ進まない・・。身がしまっているのと 何しろ大きくて、包丁の長さが足りなくて、魚の中ほどへなどに届かない。
それでも、そんなこんなに あれこれしつつ、ようやく 腹を開けば、これまた 当たり前ですけれど、内臓があって・・、しかも 本当に しっかり内臓膜に守られて、これがまた 取り出せないほど しっかり みっちり ぴったりとくっついているんですよね。
それは もう 当然でしょう。だって 生きるためのものが そう簡単に取り外せたりなどしたら、大変なことになりますし ね。しかし、それにしても 凄い密着度でした・・。
もう この部分は 自分の手には負えませんので、タコ氏にやらせましたけど、少しずつ 膜を包丁ではずしながら ようやく 尾のほうから頭に向かう途中までは取り外せたものの、その先、心臓から上が ものすごくぴったりとくっついていて タコ氏が力を入れて ひっぱってひっぱって やっとのことで 内臓を取り出すような始末。
で、まず 頭を落として と 思ったのですが、これが・・菜切り包丁では 当然 無理でして、なにしろ ほんとに 刃がたたない。で 最後は 諦めて、そのままで三枚におろそうとしたのですが、いや もう 三枚におろすなんて無理無理。結局 五枚におろしました。

四苦八苦に悪戦苦闘を重ねて、なんとか 身をはずしはしましたが、
なにしろ 捌き方が ヘタ!・・で。
だから 骨に たくさん身がついたままだったのですね。勿論 その部分は きちんとスプーンでかき集めて ねぎ、梅干、生姜などとあわせてたたき、団子汁にして いただきましたし、えらの部分なども含め 捨ててしまうようなところでは、だしを取り、湯がいた後、まだついていた魚の身はほぐして酒を振り、炒ってそぼろにしました。
(昨日は そのそぼろも使って 五色ご飯にしましたよ、おいしかったです。)
とにかく 取れたてでしたから、ここはやっぱり刺身でしょう!ということで、まず 捌いたその日は半身の半分(1/4尾分)を 厚めに切って、お刺身に!
それと味噌汁とご飯という ほんとの一汁一采というのに、それだけで おなかがいっぱいになってしまい、刺身でおなか一杯なんて、なんて贅沢な・・と ちょっと気のひける思いにもなったりしていました。
残りは 小分けにして冷凍し、ソテーや揚げ物など・・と思っていますが、そのうちの1/4尾分ほどを、翌日 冷凍したまま実家に持っていって刺身にしてきました。
うすくきれないので、結局 1センチくらいの厚さになってしまったのですが、軽く40枚は作れましたから、魚の大きさが知れようというものです。
それにしても 捌き方がヘタで、もったいない生ゴミを出してしまいました。まとめて持ってみれば やはり重くて・・、なんか 本当に 申し訳なくて 仕方ありませんでした。
お皿に盛って お刺身として食べようというとき、ふいに ああ ほんとうに ありがたいことだ と しみじみ思われて・・、心から 戴きます・・!と 手をあわせてしまいました。
命を戴くのだなぁ・・という実感が わぁ〜っと沸き起こってきたのですね。
本当に 新鮮な 捌きたての魚を おいしい!と 味わっていただくのが、それが 命を提供してくれた魚に対する礼儀なんだ と、ごくごく 自然に納得できたのです。
おいしかったです。実においしかった。
そして とても 満足しました。満ち足りたのですね。
すでに 息のないものではありましたが、形はそのままで、それを 一生懸命 食せるように整えて、そして ありがたく戴いたわけです。感謝・・!!

少し前に、小学校で豚を飼って育て、最終的には その肉を食べるという授業をしたという映画のダイジェストを見たことがあるのですが、その映画そのものには、凄いことするなー とか、よくできたな・・などと思っていましたが・・
でも 今 自分があれだけのすっかり丸ごとの大きな魚を捌いたという経験をして思うのは、それは きっとやって良かった授業だったろうな ということです。
いえ、できるなら どこででも そんなことができたらいいとさえ、思ったりもしているくらいです。
自分達の体が、そういう命を戴き続けて 今自分がここに在る ということを納得、実感するためには、豚をとはいわないものの、例えば 釣ってきた丸ごとの魚を実際に 自分の手で捌くなどということも、出来ても良いのに と 思っています。(家庭科、料理の時間は 必須ですねー。)
命に対する畏れや尊びは 言葉で言っても 分かるのには限界があるだろうと思うのですね。
たとえば、10歳までの間に 家で飼っていた ペットが死んでしまうという体験を 家族ぐるみでした家庭の子供というのは、言葉で表現できなくても そのような経験から、ごく自然に「どんな命も 絶対に何があっても軽んじてはならない」と思えるようになる と言います。
それは、命というものに貴賎や種類はなく、すべての命は『絶対的なもの』なのだということへの理解を ごく自然に得る ということのようです。
子供のころに、この『絶対的なもの』は、自分の命も 自分以外の命も すべて 命というものが 尊く、蔑ろにしてはならない、そういう貴重な大切なものなのだ と 誰から言われるでもなく把握することができると、その子は 自分も人も 粗末にしないようになっていく とも言われています。 で 自分は たしかに それはあると 今 確信しています。

スーパーや店頭で すでに 捌かれ、パックされて売られている 肉や魚だけを見ていると、その元の形をイメージすることはできても、それは 実態ではないのですから、当然 それで ありがたいとか 残してしまって申し訳ない とかという気持ちには なりにくいということもありましょう。
それは もう しょうがないだろうと思いますし、実際 しかたのないこと とも思えます。
命は 生まれて 生きて 死んでいく ことを繰り返していて、私達人間は、人間以外の命を戴きながら 生をつないで 今に至っているのだ ということを、実感を持って納得し、そうした命を戴き続けてきた者の使命や責任として、日常において、時々 そんなことに心を留め、手を合わせて、そしてその『絶対的なもの』である命を 丁寧に継いで行くようにしなくてはならないのだ と 今 強く 思っているところです。
|