寒い寒いといいながら ふと気づくと 風に ほんの少しの温みが感じられる頃になりました。
梅も盛りを過ぎ、水仙も 少々咲きくたびれた風、それに代わって 木蓮や桜の枝先に、ふくっと膨らみ始めたつぼみたちの色合いが、一雨ごとに 色増すように思えます。
2月も そろそろ 終わりに近づいてきますね。 ・・ 早すぎます・・
『人は、自分に敵対する人を赦すことは出来ません。なかなか できない。いつでも 人は なにか自分に対して ひどいことをされたら、やり返してやろうと 思います。復讐しようとする。やられっぱなしは 嫌なんです。
だけど、イエズス様は、もし 人があなたの下着をとろうとしたら、上着も与えなさい。ある人が かなりの距離を 歩かせようとするなら、その人と一緒に その倍を歩きなさい、というんです。
これは どういうことかと言うと、その人を赦す と言うことなんですね。
赦すというのは 勘弁してやるとか、忘れるとか なかったことにするとか、そういうことじゃないんです。忘れろといっても 忘れられないのが人間です。 それは 仕方のないことです。
イエズス様は、敵を 人を、好きになりなさいとは言っていないんです。好きになれとは言っていない。愛しなさい と 言っている。
赦すというのは、あなたの愛で 相手の改心のために祈る と言うことです。
痛みも苦しみも持ったまま、その人のために その人の改心を願って 祈ることです。それが 赦す と言うことなのです。』
恩師と同い年なので、もう 85か86になられるのだろうと思うけれど、ベルギーからきた その人は、亡くなった恩師と同じことを おっしゃいました。
人が 一番 難しいと思うことは、人を赦すことだろうな・・ と 自分では思っています。
それこそ 忘れてしまおうとして、なかったことにしてしまうことは、割りに 出来なくはないですが、それを 抱えたまま、相手のために祈るといのは・・ かなり 困難なことではないか と 思いました。
だけど、その話を聞いたとき、ああ そうか・・ と 何の抵抗もなく あっというまに腑に落ちてしまった・・
人を赦すというのは・・ そうか その人のために その人の改心を願って祈ることなのか・・ と。
では、改心とはなにか となりますが、それは 自分にとって 都合のいい心の改まりを願う というのとは、まったく別で、ものすごーく 簡単に、自分流に言ってしまえば、心に神を迎え入れる、とか 神に気づいてともに歩こう とする事、・・ではないか と 思っているのですが、まぁ それが 正しいのかどうかは ちょっと 強くは言いづらいところではあります・・
ある人が、彼女の人生の究極のテーマとして やはり 赦すということを あげていたことがありますが、その人にとっては ものすごく 辛く苦しいことだろうと・・、なぜなら、自分も なかなか 人を赦すなど 出来ない事が 多々 あったものですから、よくわかるのですね。
あいつだけは 絶対に赦せない、そういう人って 誰にでも 一人くらいは いるのではないかな と おもいますが・・・、まぁ なければ それは もんのすごーく 幸いなことと 感謝すべきでしょう。
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マザーテレサが 言っていましたね、『愛することの反対は、憎むことではありません。その人を無視することが 愛することの反対です。』 と。
たしかに その通りだと思いました。忘れされれることの方が 憎まれるよりも ずっと 苦しいでしょう、だって そこには その人の存在というものが 無いのですから。それは とてもひどいこと、とても 非道なことではあります。
憎んでいるうちは まだ 心の中に 相手が存在していますが、忘れ去ることは、その存在そのものを なかったことにしてしまう と言うことになりますね。
それは ずいぶんな不遜、大変な傲慢、かなり人を蔑ろにした 残酷な行為です。
そこに その人が居ないかのように振舞う というのは、これは 悲しいかな、子供だって するのです・・ 大人も やります、人は 悲しい生き物だな ・・と いつも これを思うと 思います。
なくなる前に お会いした時、恩師は こんなことを話してくださいました。
「あのね、僕はね、今、毎日 いろんなことを 思い出しているんの。僕がね、子供の頃から 思い出せる限りの会った人達を ずーっと できるだけ 思い出しているんだ。
そしてね、その人達が居てくれたから、僕が こうしているんだっていうのが、すごく よくわかるんだよね。だから 思い出す一人ひとりに感謝して、その人達のために 祈るの。
今 そういうことを やってるんだ。」 ・・ といって にこっと なさいました。
その 一人ひとりが みんな 自分にとって いい人だったかどうか といえば、そういえない人も 何人もいる、けれど、やっぱり その人との出会いは 必要だからあったんだな と すごく素直にそう思える。だから やっぱり 思い出して その人のために祈るのだ・・ とも おっしゃいました。
思い出せる限りの これまで有った人を思い出して、その一人ひとりに感謝して祈る というのは・・・、ものすごいことです。
そして それから まもなく 恩師は 亡くなりました。
自分は 恩師が亡くなられる ちょうど ひと月前に 恩師に会いに行ったのですが、そのときも、此処に坐って、と 自分の隣の場所をたたいて 私を坐らせると そんなことを お話になったのです。
そのときは まー なんて 大変なことを、お体の辛い時に、と おもいましたが、でも 今 こうして書いていると、いかにも ああ あのかたらしいなぁ・・ と 思いますね。
そして 今 自分も 死ぬ前に できるだけ 出会った人を 一人ひとり思い出して、その人のために祈りたい、・・と 思うものの。。 やはり 今 この時点で、ある人達を 忘れようとすることや、その人達とのことを なかったことしてもいいや・・ と おもうことは あっても、感謝して 祈る といのは・・・ まだ できないわ・・ と。。 そういう自分に気づいてしまいました。
大変な事だと思います、敵を赦して その敵のために祈る というのは・・!
でも、 それでも おもうのです。多分 できるようになります。なるだろう と。
根拠などありませんが、恩師がきっと 手伝ってくれると思いますし、多分 そうしたい と 願っていれば、自分はきっとそういうことができるようになるだろう と どこかで 思えています。
なぜなら、やっぱり できることなら、いまだって 人を赦したい と 心の中で 思っていますし、たしかに 憎んでいたり、くるしかったことうや 嫌だったことを いつまでも 持っているというのも、これも かなり きついことなので・・、忘れようとしたって、やっぱり 思い出してしまうこともあるし、思い出せば 追体験することもあるし・・、なにしろ 憎んだり そういうものを抱えたりって、かなりエネルギーを消耗しますしね、だから 簡単に言うと 嫌なわけです、そういうことを いつまでも持っているという自分が。
だから、きれいさっぱりになりたければ、これは もう ほんとに 赦すしかないわけで・・
なので。。 多分 自分は そう願っているから、きっと そうなるだろう と、・・ま 毎度の単純思考ではあります。
同じ時に 同じ話を聞いていた 先輩の一人が
「やっぱり ひとつのことを 何十年と信じて重ねてきた人の言うことは、ただ 熟達したものがある と言う人のいうこととは 全然違って ものすごく実感を伴って ストレートに心に入ってくるわね。」と いっていましたが、実に その通りで・・ 恩師の追悼に際して、ほんとうに 良い気づきと導きをいただけたと 心から 感謝しています。
そして、半世紀以上も生きてきて、今もなお、教え導いていただける幸いと、良い師に恵まれたことを これもまた 感謝するばかりです。
今日は 春にありがちな、薄くぼかしたような淡い空と、ありやなしやらのうす雲の合間から 何が降って こんなにきらきらしてるのか と おもうような、日が差しています。
風は ほんとに 気まぐれ風・・、もうちょっと 大人しくと おもいはするものの、まぁ 春ですから、これは 気ままに吹いても 仕方ないところでしょう。
ここ数日、表に出るたびに、風に温みをかんじては、春の近さを実感していますが、着る物も軽くなり、毎日 かならず 何かが少しずつ変化するこの季節が、私は ほんとに 好きなので、この時季に産まれたことが とても 嬉しいです。
これから先、なんどの春を迎えられるか知りませんが、自分も 恩師のように 息のあるうちに、できるだけたくさんの これまであった人たちを思い出して、それぞれの方たちのために 感謝し祈る事が(赦すことが)出来ますようにと 願います。
・・ 最近 ものわすれが ひどくて・・、でも これは 忘れないようにしなくちゃ ・・! です。
良い日々、良い時々を!!
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