Aurea Ovis

きょうは『金羊日』

2011年 1月

 

1 正月と母

2 善行のゆくえ

 


1 正月と母

 あけまして おめでとうございます。

・・と 年が明けて5日目にして ようやく ご挨拶申します。

 別に何も新しいことや珍しいこともなく ただ 平々凡々、こともなげに ふっつうに 時は流れ・・ 毎日 さむいねー とか、いい天気 とか そんなことを言いながら、いつもの繰り返しのような一日を、また 改めて 重ねています。

 なかなか 気を引き締めて とか 新たな気持ちで なんてのが、昔っから できないというか わからなくて、なんとなく 正月というと どうも なんとなく 外れてるかなぁ・・ みたいな、そんな感じで はじめの数日を過ごしています。

 この 正月について、母から 初めて聞いたことがありました。

 昨年の暮れに 年越しそばの話になって、そういえば おばあちゃん、おそばよりもうどんがいいんだよね と 訪ねたところ、
「年越しそば・・?」 首を捻って 「私、したこと無いわ。それって 日本ですることかしら?」という 返事。

 娘と顔を見合わせてしまったのですが、本人は いたく まじめで・・、まぁ そう言ったわけです。

 で、我々は そういうことなら 正月の事なんか 覚えて無いんだろう と 思ったところ、
「私、お正月って だいっきらいだったわ。。」 と 宣もう。

 わけを聞けば、子供の頃、まだ 薄暗くて寒い中を 無理やり起こされて、一家総出で お参りに行った、それが 寒くて寒くて 本当に 嫌で仕方がなかった。もどってきても 蒲団に入るなんて言ったら とんでもなくて、すぐに 着替えさせられて 着物を着せられた。着物も 冷たくて きせてもらうまでが長くて ほんとに すごく いやだったわー ・・ と。

 まぁ 母の実家というのは かなり裕福だったので、お手伝いの人達もいて、親類縁者一同が家族で集まってくるような、そんな 昔風の正月の過ごし方が 当然というところだったのです。

 正月と言うと、子供の目から見ても なんだか ものすごく あわただしくて 急がしそうで、冬休みなんて そのためだけにあるように思ったくらいでしたから、あまり 人との関わりをうまくやるのは不得手の母にとっては、かなり しんどいことだったようで、ずいぶん 後まで、折りあるごとに 繰り返し すごく嫌で 大嫌いだった と いっていました。

 ですが、今の母の記憶では、子供だった遠藤が覚えているようなことは いっさい 無かったことになっていて、先のような 自分の小さかった頃のことしか 正月については 思い出せなくなっているようでした。

 そこで こんな風に すごく 世田谷の家では 大変だったじゃないの と いうと、そうだったかしら・・ おぼえてないわ・・ と。

 すぐに話題を変えたものの、娘も自分も なんともいえない気分でした。

 その後、こういうことがあった と、ある方にお話したら その方は仰いました。
「あらぁ!おもしろい!だって、もう これまでの事なんか 一切 関係をたってしまったってことでしょ?今が お母様の中では 広がっているんだとおもうわ。それって すごいことじゃない?」

 おおー・・ なるほど! そういう風にもおもえるんだわーー・・ と。

 なんとなく 情けなく やれやれという思いでしたが、そんな風に言われると へー そうなんだー・・ と、妙に納得。

 その方は この3日に101歳になられた かつてのピアノの先生のお母様を看ておられる娘さんで、最初の頃こそ、とても 暗い気持ちにばかりなったけれど、あるときから 「もう 母のペースに合わせて 同じように面白がったり 繰り返したりすることにしたの、そうすると なんだか ただ おかしくて、いいのよね」 と 仰いました。

 閉塞された中で、自分ひとりだけにかかってくるような 看護生活をしていると、何かのきっかけでとんでもないことになってしまうことがあることを思うと、それは もしかしたら 先のお話の「暗い気持ち」が絶えずあって、それに打ち負かされてしまってのことというのも あるのかもしれない。。
  と 自分のこれまでの母との関わり方を思い出しつつ ふと 思ったりしましたが、そのどこが 分岐点になるのかとはおもいますが、お話しいただいたように、どこか 一点でも、母と 同じ目線になって 面白がるという そんなやり方を、看護している人達のだれでもが もてれば、あるいは 悲惨な出来事が なくなっていくのかもしれないなぁ・・ と考えたりもしました。

 昔 お客様だった方に 言われたことがあります。
「介護生活が始まっても 絶対仕事は続けた方がいいわよ。月にたったひとりのお客様だとしても なにしろ続けなさい。そうしないと 本当に 世の中とまったく触れることがなくなって、そのうち 自分が忘れられたように感じて とても 辛いから。」

 まさしく 今がその時で・・、昨年にいたる数年は、仕事することに 億劫さを感じていましたが、これからどうなることかなど 何一つ わかりはしないものの、今後、また 以前のようなペースで仕事ができるのなら 是非にという気持ちに 今、ようやく なってきています。

 先の方のお話のように 状況を面白がるという 唯一 自分には 恵まれていたはずの能力を すっかり封じ込めてしまっていたようで、今 また、こういうときならば こういうときを楽しんでみようか という そんな気持ちに なってきたのは、一歩 足を踏み出したような感があります。

 人間、暗いと 駄目ですねー・・ 特に 自分は 駄目みたいです。
別にきらきらする必要は まったく無いけれど、それにしても ある程度の明度は、普通にあったほうがいいみたいです。

 頑張らないで、平たく ゆっくり 今年は ぜひ そう暮らしたいと 改めて 思っています。

 

 

2 善行のゆくえ

 もう 40年ほども前の話になるだろうか・・

 そのころ、ベトナム難民と言われた人達が 命をかけて、行き先はともかく、とにかく 危険極まりない当時の祖国を離れて 生きのびる道を探して、通常では それで海を渡るとはとても信じられないような小船に あふれんばかりの人達を乗せて、大海原に漕ぎ出す ということが、たびたびあったことがある。

 たまさか どこかの気骨ある人々との遭遇で 命を救われたり、あるいは 無念なことに そんな出会いを一切知らないうちに 時化や不運としか言いようの無い状況に飲み込まれて、なくなってしまうような・・ そんな出来事が 夕方のニュースなどで よく報道されたりしていた。

 近隣に及ばず、他国では そうした難民たちを 一時的であっても受け入れ、まずは 命を永らえることができるような措置をとっていたにもかかわらず、この!日本では 受け入れをよしとする政策も風潮も、まるで 牛歩のように鈍くさいまま、すこしも 善処の言葉すら聞こえない状況が続いていた。

 そんな時、神奈川県は大和市に 場所を借りることを申請し、その許可を得んがため、様々に奔走した人達の中に、一人の神父がいた。

  アイルランド人の彼は、若くてハンサム、当時としては珍しく大型バイクで何処へでもでかけて行く行動派で、たくさんの人と知り合うことを ごく自然にしていたこともあり、ベトナム難民と呼ばれる人達が 日本の何処そこにたどり着いた と知ると、いける範囲であれば出かけていって話を聞き、(ちなみに 彼は非常に語学に精通していて、日本語も来日1年半で、ネイティブのような会話ができ、実に8ヶ国語を そのように話し、また読み書きもするという 稀有な才能の持ち主だった)彼らのために 何かしなければ、とおもったのが、大和に定住センターを設けるという、それに賛同、参加することのようだった。

 逗子市と言うのは 先の大戦のあと、おもしろいことに 外国人が多く住み着いたところでもあり、現在は代替わりしてしまったほとんどの店の何軒かの元の店主は ロシア人だったり、ギリシャ人だったり・・という そんな町でもあったにもかかわらず、意外に排他的(あるいは慎重と言うべきか・・)なところもあり、肌の色の違う人達を受け入れるには 相当の時間が必要になりそうな、今は そんな町になってしまってもいるように思われる・・ときが、ある。

 そんな中で、まぁ 今も昔も、逗子市は物価は高いし、たくさんの人達を受け入れるだけの場所も無い小さな市だということもあって、大和と言う場所を選んだのか、あるいは なにかの伝を経て(これはG神父、とっても得意な方法)うまい具合に 定住センターとして、開設の運びにいたったのでは と 詳しい事情を知らないまでも 思われている。

 自分は じっさいにそこまで足を歩を運んだことは無かったが、彼や 彼の行動に賛同する人達は、必要な物などを皆に呼びかけてあつめ、それを 時間のあるときなどに 運んでいたようで、よく こういう状態の人のために これをもっている人で わけてもいいという人が居たら、持ってきてください、とか これこれが これだけ必要です、ある人は分けてください というような メッセージを聞くことが、たびたびあった。

 そこころは、まだ 遠藤の恩師である伊藤神父も 逗子の教会に常駐し、若くて活動的なG神父のすることを 積極的かつ的確にバックアップしていらした。

 自分自身は、当時 四番目の長男がまだ幼すぎた頃だったこともあり、そうしたことに 関わっていくことも 難しかったけれど、赤ん坊の物などは 数だけはあったし、上が女の子たちばかりだったので、そうしたものは わりに綺麗に残っていたので、その中から 差し支えないような物を選んだり、自分が子育て中に あって助かった物などを思いながら、小さな荷物を作っては 時々教会の救援物資を入れる箱に おいてくることもあった。

 そのころ母は、ちかくに住む母の友人のSさんに付き合って、彼女から 少しばかり化粧品を買っていたのだが、あるとき、Sさんが帰ったあと、下に下りてみると 机に複数の化粧品が並べてあった。

 「どうしたの?こんなに買って。」と聞くと、これとこれは 自分で使うんだけど、あとは 大和に持ってってもらおうと思って買ったのだ と いう。

 なぜ そうしたのかと問えば、母は こう答えたものだった。

 戦争の後 着のみ着のままで 日本に戻ってきた時、先についていた父親のところへいったら、驚いたような顔で見られ、とにかく美容院に行け と お金を渡されたそうで、自分でも それまで 自分にかまけることなど、すっかり忘れていたことに気づき、鏡を見ると なんとも 悲惨な顔をし、それなりにまとめたりはしていたものの、乾いてばさばさな髪の、どうみても 年齢よりは 数年年とった自分をみて ぎょっとしたことがあった、と。

 急いで、まず 知り合いに頼んで、美容院を教えてもらって行き、髪を整え、ついでに かるく お化粧してもらった自分の科を見て、ようやく ああ 戦争が終わったのだな・・と思った と言っていた。

 それから、新しい洋服を作り、履物や持ち物を少しずつそろえていったけれど、そうしながら ようやく女であることを喜べるようになったり、そういうことを 誰はばかることなくできる幸いは、心も身体も元気にしてくれて、さぁ これからだ!という そんな思いがしたわ、と しみじみと話していた。

 そんな母の経験は、あのとき、ベトナムから 命からがら逃れてきた女性たちのことに思い及び、彼女たちが 意欲を持って 元気で生きるための一助になれば・・、化粧品を買うことにしたようだった。

 ファンデーション、フェイスパウダー等に加えて、チーク、色違いの口紅数本、アイブロー数本、そして パフやこぎれいな入れ物などを まとめて袋に入れ、あなた、G神父さんにこれをもってってね、と言ったのだ。

 

 そういうことのある前に、大和のセンターから 逗子の教会に 数十人の人達が 親睦と交流のために やってきたことがあって、そのとき、自分は初めて 彼らに会ってみたのだが、自分と同じように子育て中の女性も 数人いて、小さな子供を抱っこして 参加していた。 

 英語がわかる人に つたない英語で話しかけながら、彼女が 子供と一緒に此処に来られて 本当に嬉しい、自分は 幸いだと思うけれど、そうできなかった人も たくさんいる、と 低い声で静かに話した時、なんともいえない気持ちで 化粧っけのない疲れた顔の 深い悲しみをたたえた目を じっと見つめるしかなかったことを、母のそろえた化粧品を見ながら 思い出していた。

 そこで 自分もとおもいたち、息子の粉ミルクを買う時に 少し多めに買い、また紙おむつや離乳食など、つねに必要だった物の余分も加えて 先の母のつくった荷物と一緒に、G神父に手渡したところ、彼は ふかく感動したような顔で、言った。

 『ああ、これは・・!すごく 喜ぶと思う。おかあさんに 有難うといって。きっと ほんとに すごく 喜ぶ。女の人は きっと ほしいと思っているだろうと思っていたけど、こういうものは 食べ物や着るものよりも ずっと あとのものだと 思われている。おかあさんに よろしく。ありがとうと言って。僕も すごく喜んでいたって。』

 確かに 衣食住に関するものが足りて ようやく そういう所へ 気が回っていくのだろうとは思うけれど、後日 口紅一本で 生き方の変わった人を知った自分としても、ずいぶんと そのときの母の行為は、大きな役割を果たしたのではないか と ひそかに思っている。

 その後も、G神父には、あの時のことは 忘れられない と なんどか 言われたことがあったけれど、そのとき、そこに、あるいは その人に なにが必要かというのは、どういう状態に その人達があるか ということを考えないでは、提供することも難しく、時には 的外れだったり、迷惑な物にもなりかねないこともあるのだろうな、ということに、あのときの出来事は 気づかせてくれたのだった。

 日本人は、もともと 細やかに人を気遣う民族だったと思えるような記述を 過去の様々な歴史書や資料で知ることができるが、そうした美徳が 戦後しばらくからこっち、自分も含めて かなりぞんざいになってきているようにおもえるのは、日々、自分のことばかりにかまけて、あたかも 人が自分のために存在するようにすら 思いかねない 傲慢さの故ではないか と 考えることもあるのだが、それは、時に 相手の状況のうわべを見て、そく 自分にできる善意はなにかと考える時、おもいついたことをする という、一見、善さげな行為をとることにも 見て取れるように思う。

 このところ報道される一連の「伊達直人」騒動?にも そうした向きを感じてしまうのは、まぁ 個人的に 先のような経験があったからだろうとも思うけれど、すこしのゆとりが出来て、なにかよい具合に活用できないかと考えたなら(自分だったら と限定するが) アクションをとろうとする先に連絡して、何がいるか、どういう形で 気持ちを表させてもらえるか、と 尋ねることが最初かな と思う。

 べつに いけないことではないし、家庭にいる子供達だけではなく そのように暮らす子供達がいるのだ という、普段 気づかれることも無いまま存在する そうした施設などが知れ渡ったことは 良かったと思うけれど、いまひとつ ぴんと来ないものを感じている自分などは、ランドセルや文房具を、貰った先では どうするのかな と 思ってしまうのだ。

 遠藤の実弟は、東京のある養護施設の職員をしているが、彼に言わせると、今の施設の子供達は 物は ひょっとすると 一般家庭の子供達よりも たくさん持っている場合もある。物を寄付してくれるのは ありがたいんだけど、本当に ありがたいんだけど、正直に言えば、物よりは できれば実費や なおできれば人手、助け手がほしい、と 言っている。

 職員たちは 必要な人員を確保できないまま、しなければならないことも含めて なにしろ時間が取れなくて 本当に大変なのだ と言うことである。

 そうだろうと思う、ひとつの例だが、どなたも過去を振り返ってみて、まだ 自分が余りたくさんの言葉をしらないころなどに、人から貰ったプレゼントを見て、あ、自分って こう思われてるんだな、とか、なんで これをくれたんだろう?と 思い、プレゼントを手に、途方にくれたようことが無かっただろうか。

 ハッキリ言えば「不要な物を貰った・・感」の経験は ないだろうか?

 それがあることすら思いつかなかったものを”あてがわれた”みたいな・・、それこそKYなプレゼントをもらったことって・・ 一回くらいは だれにでもあるのではないだろうか。

 言ってみれば 全てがそうだとは言わないけれど、伊達直人たちの贈ったどれかには そんなものも、きっとあるんじゃないのかな 思うのだ。

 物を贈るというのは とても 難しい。

 しかしながら、もらう側になってみても、何が必要か と聞かれて、これがほしいと 言い出しかねるような物もあったり、あるいは 言ってみたものの、こちらの思っているものとは 「とんと違う形状の似たようなもの」を贈られるなどという場合もあり・・ 大人であれば それでも気持ちを頂くことは出来ても、子供は、ましてや 頼みとできる保護も定かではないような子供達には、そういうことは かえって 気わずらいや悩み、ひょっとすると なにがしかの悲しみのもとにもなりかねないのでは・・と思ったりもする。

 母の贈り物が、命からがらたどり着いた異国で、女性たちの、とくに 若い母親たちの気持ちを引き立て、笑顔をもって家族を安心させ、さぁ これから・・・!という 力をバックアップしたことを思うと、一連の騒動にも、もうひとつ!と 言いたくなる自分の気持ちは、さして 筋違いでもないのではないか と おもえてならないのだが・・ いかがなものだろうか。

 

 

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