Aurea Ovis

きょうは『金羊日』

10月

 

1 20年前のいじめがもたらしたもの

2 小さな天使たち 働く

 

1 20年前のいじめがもたらしたもの

  知り合いに、昨年 ご主人をなくされてご家族がある。

 奥様は 70代半ばで、お子さんたちは 30〜40代だが、それぞれに 心身の問題を抱えておいでだ。

 その問題の因み というのが、それぞれの中学校時代の「いじめ」であり、それから今に至るまでの、苦しみや嘆き、悲しみをおもうと、とても言葉では言い尽くせぬほどの たまらない思いを抱かざるを得ない。

 中学生は 子供である。しかしながら、物事の良し悪しは、特殊な育てられ方をされてこなければ、とくに強く指導しなくても わかる年代だろうと思うのだが・・

 面白半分だったのかもしれない、相手が 嫌がるのを見ているうちに、周りも やってみたくなって 一緒になってやってしまったのかも知れないが、つまり それほどには いじめた側には、彼や彼女をいじめた という認識は なかったのかもしれないが・・ 

 あれから、20年前後たった今の彼や彼女は、いまだに 人を恐れ、だれかが 自分に手を出してくることに身構え、表を歩くことにも たまらない恐怖を覚えたり、日々の生活に事欠きながら、苦しみの中を 生き続けているのだ。

 その親御さんたちも 同様に、苦しみの中を生きてきた。

 しかし・・、当時 彼や彼女をいじめた者たちは、今 自分がいじめた彼や彼女が そのように生きていることを 知っているのだろうか。

 自分がいじめた相手が そのように苦しみ、そのように悲しみ、そのように不自由な日々をすごしていることを、20年前、同級生だった 同じクラスの者たちは、本当に 知らないでいるのだろうか・・

 いじめた者らは、今、普通に仕事につき、家庭を築き、子供らを学校に通わせ、それなりの暮らしを、ごく当然のようにしながら、20年前の 自分のいじめで 深い傷をおったまま 苦しみ続けている彼や彼女のことを 思うことは、その消息や現状を 知ろうとすることは、ない とでも いうのだろうか・・!

 そんなふうにして 平気で、かつての自分のしたことさえ 忘れて、それなりに暮らしているとしたら、かなりの愚鈍、・・当方に言わせれば それは 犯罪人でしかない。

 そういう人間が、すぐそこにいるのかもしれないのだ。自分の隣に 住んでいるのかもしれない。

 そういう人間が、かつて そのとき たまたま 子供だったからということで、同級生を苛め抜いて、20年たっても その後遺症を抱えて生きるような境偶に落とし入れたまま、そのことへの反省も無ければ、謝罪も無く、その人への気遣いもなく、すっかり すぎてしまったことだから と、自分の今を 当たり前に生きている・・
そういう人間が、その過去を知らないまわりの人たちから 普通にいい人と思われているのかもしれない。常識的な人と 思われて、同じ共同体にいるのかも知れないのだ。

「20年前に 人をいじめて、その人が 生涯立ち直れないほどの傷を 心身に負わせ、その人を いまも 日々の生活に事欠くような苦しみのうちに追いやりながらも、何食わぬ顔をして 普通の社会人のふりをしている人非人」が、
その罪を 問われることなど 一切無いままに、当たり前の顔をして 家族とともに すぐそこに住んでいるかもしれない ということを、私たちは 考えてみるべきだろう。

 自分の子供が そのように人を実際に死なせたり、あるいは後々まで 死ぬような苦しみを与えてしまったとき、親がそれをかばったり、言い訳をしたり、現実から逃げるような行動を取るとしたら・・ それも また 罪を犯した自分の子供に、親が罪を新たに犯すことになるのだ ということを、理解することができないのだろうか と思う。

 子供のしたことだから と 人としての社会的処罰の対象にしなかったために、人にあるべき 誠意ある償いを 本人がしてこなかった、また その親もともにしてこなかったことで、いじめた子供は 自分のしたことが 一過性の出来事だったように思おうとする。
 自分のしたことが どれほど すさまじくひどいことだったのか、を 現実として、苦しめた相手と対峙する機会を失うことで、自分のしたことを 省みることをしないまま、その後を 生きてきてしまうことになり、現実に そうしている連中が存在している。

 それは、「人を死に至らしめたり、それにも似た、苦痛の中に追いやった罪」の中に 今もなお生き続けていることでもあり、また そのことへの償いも反省もないまま、日々 その上に さらに罪を重ねながら 生きている」ということにも なろう。

 人は、自分を認めてもらいたいと 願う生き物ではあるが、そう願っていることに 気づかずにいる 生き物でも 実は ある。

 自分の力の誇示が おそらく いじめのわかりやすい衝動のひとつにあるように思えているのだが、もし そうであるのなら・・

 自分は、だれかに 認めてもらいたいと 思っていなかったか、それを 考えてみるのも良いかと思う。

 自分よりも 弱いもの、自分にとって 面白くない存在、これという 理由も無く、何しろ そこにいるのがうざくてたまらない相手がいたとして、その人がいなくなることを望んだり、また 自分には勝てないと思わせよう、自分には逆らえないと思わせたいことが、相手をいじめる動機になっていないか、かんがえてみるのは、無駄なことではないと思う。

 それをすることで、周りの人間たちに 一目置かせようとしたり、それなりの扱いを求めたり・・という、実に くだらない 哀れな欲望が働いていないか、考えてみることは 必要なことだろと 思っている。

 たくさんのどんぐりの どれが一番えらいかをきめてほしい といわれた少年が見たどんぐりたちは、どれも 皆 同じで、特に 大きいとか小さいとか 思われるようなものは無かったので、そのとき 金色に見えたどんぐりたちを えらいとしたらどうか と 意見したところ、なるほどということで 一件落着。

 お礼に なにを?といわれた少年は、それじゃあ 金色のどんぐりを枡いっぱい と いって、それをもらって帰ったが、ふたを開けてみると 全部 ふつうのどんぐりだった・・ という 宮沢賢治の童話が 思われてならない。

 人なんて、そんなに優劣なんて ありはしない。

 幸福を感じられる人は 自己肯定感が 強いというデータがあるようだが、その肯定感は どこから来るか、というと、その人が幼いときに、親から 惜しみなく愛された記憶による という調査結果が 出ているという。

 幸福を感じているものは、人を 貶めたり 人に害を与えることを避けようとする。

 つまり、いじめをする連中は、愛されたことが なかった、と いえるのかもしれない。
幼いときに 親や 周りの大人たちに かわいがられ 大事にされ、よく面倒を見てもらったことが すくなかったり 無かったりということなのかもしれない。

 それこそ、哀れな話で・・ それからいえば、人をいじめた子供は、その親や周りの大人から いじめられて育ってきた、とも いえるのかもしれない。

 どこかで この連鎖を止めなくてはならない。

 いろいろに 道はあるだろうが、ひとつには いじめをした者が、自分のしたことにしっかりと対峙し、いじめた結果の相手の現実をよく認識することから始め、心からの反省と誠意ある償いを、実際に行えるようにすることも あってよいかと思えている。

 それが、できることなら その親とともにも あってほしいと 思うところではあるが、なぜかといえば、それが 反省したかつてのいじめをした自分の子供を、その親が、改めて愛することになるだろうから と、私は 思っている。

 人 一人を殺しておいて、自分の子が悪いのではないといいきり、それを 愛しているからかばうのだ と 錯覚している連中には、ぜひとも そうあるように、と 強く勧めるところではある。

 知り合いのご家族を、今のようにしてしまった連中は、今も この町で いい人をやっていることもあろうが、ぜひとも 自分がしたことが どんなことだったのかを 自分の目で見ることを 願ってやまない。

 見せ掛けだけ 格好だけのいい人から、本当の いい人 になってほしいから・・。

 

 

 


2 小さな天使たち 働く

 昨日読んだものの中に、うなづける話が書いてあったので、おすそ分けを。

 年配と見られる その筆者が ある日、日傘を差して 道を歩いていると、目の前を ふわふわと 風船が 車の通るほうへ 流れ飛んでいくのを見る。

 近くを見れば 自転車の後ろに座った 小さな女の子が、半べそをかいて 風船の行方を目で追っている。 その若い母親も 困り顔で たって見ている。

 交通量の多い道は 飛び出すには あまりに 危険だが、筆者は 持っていた日傘を ちょうど良いところへ差し出し、うまい具合に風船をすくいあげて、無事 どうなることかとみていた 母子に渡した。

 母子は とても よろこんで、筆者は 良いことをした と うれしい思いになって 歩き出す。

 歩きながら 筆者は気づく。

 自分の歩いているそばには 車が 止まっている、それも 一台ではなく 次の車も、その次の車も・・ 

 そして 止まっていた車が ゆっくりと動き出し、それぞれの車が 順に動き出したのを知るや、彼女は はっとするのだ。

 自分が 風船をすくいあげることができたのは、自分だけの力ではなかったのだ と。

 自分が風船を取っている間、そこを通るはずの車に乗っている人たちは、それが すっかり済むまで 待っていてくれたのだ、と 彼女は 気づいたのだった。

 自分ひとりが 良いことをした と思っていたけれど、その良いことは、車を動かす人たちが 車を止めて 待っていてくれなくては 成り立たなかったのだ・・!

 そうかんがえた筆者は、人間 捨てたものではないじゃないか、と さらにうれしくなった、、と 書いてあった。

 自分が 誰かに良いことをすることができたとき、それが 自分ひとりの力でやったと思いがちだが、そうやって 気づかぬところで 何人かの人たちの、それをサポートする働きがあって ようやく 自分の行為が成り立つことがあるということも、私たちは どこかで 覚えている必要があるとおもう。

 一個の風船をめぐって、人々の中の 小さな天使が ちょっとだけ 忙しく働いたのかもしれない。

 

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