ひつじ小屋便り  74


メリー クリスマス!

ひつじ小屋の風景64

川辺にて

『エレの引き出し』

ひみつのいえ 11

キレイへの工夫

愛すること 22

子育て、愛のバトル

きれいをおいしく!

洋ナシとチーズの
アンティパスト

ひつじ小屋の日々

遠い呼び声

編集後記

発行日 2006/12/05   発行人 遠藤由美子


ひつじ小屋の風景64   川辺にて

  『それ』を見つけたのは出先からの遅い帰り道、川沿いの、いつも通らない道を、たまたま選んで歩いていたときのことでした。

 バスの通る広い道をちょっと入っただけなのに、川に沿って歩き始めたほんの数メートルで、後ろにおいてきた車や人の喧騒は、不思議なくらい遠くなっていました。私の歩いている側は、昔からの家並みのままのような雰囲気で、なにしろ街灯らしい街灯もなく、向かい側に立ち並んだ今風の丈高い家々からの灯りがその代わりをしようとはするものの、川面にそれが落ちるでもなし、ちょっと古風な脇道風情ではありました。
 後ろから 自転車の近づく音がしたので、道幅を少し取った車寄せのようなところに
体を移して自転車をやり過ごし、ふと 川辺に目を移して、・・『それ』を発見したのです!

 『それ』がなんだか 知りたいですか?勿論、教えますよ。でも、ちょっと推理してみてくださいね。

 その川には 二股に分かれるあたりに、堆積した土砂を覆う植物が生い茂っているところが流れから取り残されたようにしてあります。そして、大きな欅の木も川の両岸に数本ずつあります。月が雲に隠れるような日でしたから、最初にそれを見たときは、ちょっとまばらに花をつけた木蓮のように思えもしました。いや、しかし、やっぱりそれではあまりに大きすぎます。川沿いの暗い夜道に立って、じっと目を凝らしていると、かすかにそれが動くのがわかりました。さらにじっと見つめていると、そのうちのひとつが 突然ぱっと飛び立ったのです!!
  (ここでわかった方はすごい・・!あ、わかりました?)

 何しろ、暗い中でのことでしたし、色もそれとわかって 初めて"白"といえたのですが、
『それ』は、じっとしているときとは違った優雅な姿を、暗がりの中であってさえも示しつつ、無音の闇に溶け込んでいってしまいました。 (わかりましたね?そうです。それです。)

 川沿いのわずかな明かりの中で、たたずむばかりの大木は、長い長い時間そこに在ることで、幾多の命の安全を見守ってきたのかもしれない、と思ったら・・、なにやら胸の中に、暖かな水の満ちるような思いがして、例えば、これが自分であって、そこに自分がいるというだけで、このありようのまま利用してもらったがために、それが誰かの安心や安堵になるようなことがあったら・・! そんな思いになりました。 

 しかし、私たちは 自分の人生を、生きている毎日を、どのように、どれほどまで作り上げられるものでしょうか? それが できたかできないかで、その人の価値の有無を問われるものなのでしょうか?

 いいえ! 私は、きっと私たち一人一人が、あの樹のように、そこに存在するということで、自分の気付かないうちに、誰かのための"良いもの"にしてもらっているときが、一生のうち、どこかで必ずあるのではないか と思うのです。

 だから、だれも何の役にも立たないなんてことないし、生きていても意味がないなんて事もない、目に見えた役立ち方をしないのはだめだなんて、誰にも、誰にも!言えない というメッセージを、私は あの日、あの大きな欅の木から受けました。

 生まれること、生きていくことは、我々の思いを 限りなくはるかに超えた"人の幸いを望んでやまない豊かな眼差し"によって、「在る」のではないでしょうか・・?
 だから、決して 誰にも、その人自身であってさえ、決して 命は 粗末にしてはならないと、安心しきって眠る”白さぎたちを宿らせる欅の木”を見ながら 思いました。

 


『エレの引き出し』

 ひみつのいえ 11

 「ゆりは そのとき はじめて じぶんのしたことをこうかいしたのだよ。
じぶんのよくぼうのあまり、しえはならないことをしてしまったことを 心からくやんだのだ。どんなに よいものでも、どんなに すぐれたものでも、まったくよいものであったり、まったくすぐれたものであることは、きみたちのせかいにも、われわれのせかいにも ない・・と いうことだ。」

 おにいちゃんは そっといいました。「それから・・?」

 マントの人は ふかくうなずいて つづけました。

「じぶんのしたことを ひどくわるかったとおもったゆりは、ひからびて みるもむざんなようすになってしまったが、それでも さいごのさいごまで なみだをながして こうかいしつづけた。
 そのようすを見た そののもちぬしは、ひからびて みるかげもなくなったゆりをあわれにおもい、手のひらにのるほどのきゅうこんになったゆりをひろいあげると、それをポケットにいれてしまった。ゆりは ああ どこかにうめてもらえるのだろうか、そしたら こんどは もう にどとつまらないかんがえはおこさないで、せいいっぱい いっしょうけんめい じぶんのしごとをはたらこう と おもった。」

「しかし・・、そののもちぬしは ゆりをポケットにいれたままで、すっかりわすれてしまったかのようだった。ゆりは またかなしくなって なみだほどのみずけもないくらいになっているにもかかわらず、あまりのかなしさが そのみをおしつぶし、とうとう いってきのなみだに なってしまった。」

つづく・・

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キレイへの工夫 12月

 12

〇 メイクアップは「創り上げる」もの
  何かを作るときには、必ずそこに"なぜ""どうして"があると思います。きれいに見せたいのなら、どういうキレイさを出したいのか―目元の美しさ、滑らかな肌、暖かな雰囲気、愛情深さ、大人っぽさなどなど・・―を意識し、そのために どこに"どうやって"メイクすると、思い描いた自分になるのかかんがえる、それがなりたい自分に「創り上げる」こと=メイクアップなのです。

 心は私たちの目に見える部分=顔や体、態度や行動=と別にあるものではありません。心や気持ちのある目的に適うような行いは、その行為を通した心の表現に他ならないと思います。心と体はばらばらではないからですね。

 どんなに高いテクニックでキレイにメイクしている人でも、行いが醜ければ、その人のメイクは単なる仮面にしかなりません。気持ちを込めたメイクに多少の未熟さがあっても、その行いが誠実であれば、その人を見る人はその人を暖かく見つめましょう。これは、私の経験からも言えること。
  美しさのための技術の駆使は、その人の心の現れる部分にこそ施されてはじめて、その人を魅力的に創り上げていくものなのです。  終わり


 麗12

 人はやはりひとりひとり別個のものですから、タイプ別とくくれるとしても「私の場合は」と考え、それに基づいたその人なりの望ましい状態を目指すやり方があるべきでしょう。もって生まれた体の資質や考える傾向、感受性の豊かさや物事の受け止め方、あるいは生活嗜好や生活状況など・・、様々に一人の人に関わっていますから、それらを無視して、単にお手入れとして進言するのは、いつかどこかでその人本人から ずれてくるものなのです。

 たびたび自分を客観視できる方法(相談できるプロの目を持つ人に定期的に状態を診てもらうなど。)で、そのときの自分の状態に合わせて適切な対処をしていけるようにすることは、自分の肌や健康に責任を持つということにもなり、それは結果的に美しい肌、健康な状態を手に入れると同時に、自分のいる社会の中で好ましいものとして存在することもできていくように思います。

 美しいことを、ただキレイなこととしないこと。きれいであるよう、小さな努力を惜しまないでいられること。それはどんな化粧品や薬よりも、その人をキレイな人にするだろうと、私は考えています。  終わり

 
  意12

 体や皮膚をキレイに保つために必要なことは、自分に関心を持つこと、自分とよく対話するということでしょう。肌についての不満とその解消のために、情報に翻弄されるよりは、毎日、鏡に映る自分を見て、肌状態や体調のチェックを注意して行い、その時々にあわせて適切に対処することは、その人が自分を責任を持っているとも言えること。

 病気などの例外を除いて、通常において、肌具合が今ひとつというときなどは、やはり自分の毎日の生活態度や心理の観察を意識的にやってみることは意義あることです。
  自分に関心を持てない人は、人に優しくすることは難しく、それは心の余裕のある無しの表れでもあるようです。

 自分の変化を感知する人は、相手の変化も見逃しません
  大切なことは、状態を率直に認めること。わからなくなったらわかる人に素直に聞いてみること。原因がわかったら、それを解消するために、努力を惜しまないこと。なにより、改善に向けて希望を持ってできることを続けていくこと。そこには、ひとつのきれいになるための意識という道すじが通っているはずです。その人の意志ひとつで、キレイは実現すると 私は思っています。  終わり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛すること 22

 「大きなショッピングセンターに行くと走り回ったり じだんだをふんで通路に寝たり。よくある風景ではありますが いざ自分がなってみると 気力体力勝負だなと痛感します。」

 若いママからのメールには、初めての子育てでの困惑が。
  ついヒステリックに叱った後は自己嫌悪に陥り、ご主人にも八つ当たり。情けなくて泣いていたら、小さな娘さんが「おなかスイタの?」とポケットティッシュを「ハイ」と。
 2歳児にそんなことをされ、一瞬うれしいような、情けないような・・と続いていました


 「世に生を受けて2年間で 急激にものごとを吸収したり自分の頭で考える力を ぐんぐんのばしていくのだから、冷静に考えてみると「あれしたい、これしたい」の好奇心は自己主張だし 成長でもあるのですが・・。」

 そう、母親は皆そうやって来ました。
「どんどん活発になる息子の相手は死ぬほど大変」というママも、大丈夫!
  大変と感じるのは生きている証拠。
愛していれば負けることのないバトルです。  がんばれ!

きれいをおいしく!
洋ナシとチーズのアンティパスト

材料:よく熟した洋ナシ1個(4人分のとき)好みのチーズ薄切りハム、薄くスライスしたフランスパン ひとり2枚、ハーブソルトこしょうなど。

作り方;1 スライスしたフランスパンオリーブオイルを軽く塗る。

2 1薄切りのハムを少しパンからはみ出すくらいに乗せる。

3 洋ナシは皮をむき、芯を取って4等分したものをできるだけ薄くスライスして、フランスパンに少しずつずらしながら乗せる。

4 チーズを適当にカットしたものを3に乗せ、ハーブソルトこしょうを振ってオーブントースターで2分焼く。 

 チーズはモッツァレラなどのナチュラルチーズ系が合うように思います。嫌いでなかったらブルーチーズを!ちょっと大人向きかもしれませんが、よく熟した洋ナシとの相性はとてもよいですね。

クリスマスワインと一緒に!

ひつじ小屋の日々
遠い呼び声

 思いがけない展開でした。
  気軽にお預かりした小さな座面の抜けた椅子2脚が、実は100年以上も前に作られたもので、実にしっかりした良いつくりの、日本の暮らしに合わせたものだったということがわがり、ある方のご好意とご紹介によって、きちんと修理されて 先日、やっと正規の椅子の持ち主様の手元に届けられ、数ヶ月のどたばたがおわりました。

 様々な問い合わせやお知らせ、連絡や事情がたびたび行き交い、「軽くて小さい」ことを買われた椅子たちは、その"軽くて小さい"ままに、とても長い時と沢山の人の思いを携えて、この時代を これからも軽く、小さく生きていくことでしょう。

 100年以上もの昔にヨーロッパで生まれ、あるとき日本に連れてこられ、そして何十年も経って、"私"と出会ったことを思うと、それが自分のものでなくても、言葉にならない遠くからの呼び声を聞いたような感動を覚えました。

わたしがプレゼントって・・

編集後記

2001年2月分の「ひつじ小屋だより」にかいた"2枚の絵"という最初の文を、今回のお便りを書きながら思い出していました。

・我々人間は、どんなにしても何故人が生まれるのか、本当のところはわからないでしょう。

・私たちも欅の木。そこに在ることに意義と理由があり、それを知らなくても、自分の生を生きることで、十分勤めているのではないでしょうか。

安心して生きていきたいものです。

Aurea Ovis

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平日:午前10時〜午後7時
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