ひつじ小屋の風景 33 (時の恵み)
日に向かって嬉々として咲きそろう満開のつつじの小庭園にある、お向かいの大きな欅の木には、ついこの間 あ 新しい緑が出てきたよ と言ってから、たいして日がたっていないのに、もう 殆どの枝に若葉が満ちて、さわさわと柔らかな葉擦れの音が聞えるようになりました。
ひつじ小屋の狭くて日当たりの悪いベランダに置きっぱなしの、たまに気にする程度で手入れもしないバラの鉢植えにも 新しいつぼみがふくらみをもち始めています。
良い季節になりましたね。
『昔、洛陽城の桃の花を楽しんだ人達は既に亡くなって、今は 我々が花の散るのを見て嘆いている。』という先の二行で始まる劉廷芝の詩は『毎年美しい花は同じように咲くけれど、この花を見る人々は毎年変わっている。』と、続く二行で時の流れの無常を嘆きます。
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同
「ゆく川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは かつ消えかつ浮かびて 久しくとどまりたるためしなし。世の中にある 人と栖(すみか)、またかくの如し。」 私が、できそうにないけれど 一応 理想としている暮らし方を実践していた鴨長明は そういって水の泡のような人の一生のありよう(諸業無常)を書きとめています。 まさしく・・ですね。
なのですが、最近 私の中では ある部分でちょっとした変化がおこってきています。
それは 年年歳歳花相似を思うと、なのですが、私には 毎年のこの自然の繰り返しにおいて、いつの頃からか その年のその季節のほうが、それまでよりも ずっと より鮮やかで心地よいもののように感じられてきているのです。
世の中は データで見聞きすれば、確実に空気は汚れ 環境は悪くなるばかり。おまけに人のマナーもよくないうえに、わけのわからない美化推進運動もどきで「?」と思うようなおかしな整備?やらによって どんどん 天然自然の当たり前の姿から遠ざかってしまっているので、時々"わぁ 窮屈そうだなー"とか"なんか かわいそうみたい"と おもうような花や木の植え方、無理やりの水の流れや岩の配置など、うそ臭くて 思わず笑ってしまうほどの変な庭や公園、みんなの広場的なものが増えているように思います。
ですから 決して人が日々見るところでは、私が感じているようなことはないようにも思うのですが、そんな劣悪にして気の毒な環境にあってさえも、いや それだからこそ(なのでしょうか?)なにか「意志をもって生まれる」といったような花々や木々の息吹き―力というか・・に、コレまでよりも もっと という意欲を感じるのです。
話は変わりますが・・、いつもの散歩道が突然見晴らしがよくなっていて、きりたおされた生々しい切り口には、数えてみると 気も遠くなるような年月の証がくっきりと見て取れました。
これだけの時間を、厳しい風雪、暑い日ざしや暴風雨、たまに人や獣に傷を負わされたりしつつも、行き交う人々や訪れる生き物に 優しいささやきや涼やかな影、なぐさめの甘い香りなどを振りまいて、長の年月 生き延びてきたものを、たかが家を建てるというために、よくもまぁ 簡単にその命を絶つものだなぁ と 切り口にあふれる真新しい樹液の涙を そっと指でぬぐいながら 哀しくさびしくすまない気持になりました。
人は・・(私も含め)どこまで奢れば 気がすむのでしょうね。
先のふたりの先人たちは、それぞれ思うところを書き記しつつ、人を含めた世の在り様が無常の諸行として久遠のうちに飲み込まれていくことを、嘆きやさびしい悲しみと残しているように思えますが、こと まったくの個人的な感覚では、そこからその(嘆き悲しみ)の向こう、そうやて飲み込まれてしまうこと、そのこと自体が、私たちへの一種の救い、我々に与えられた『時の恵み』になっているのではないか、などと思うのは・・・ やっぱり 私くらいなのでしょうか・・、ね?
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