昨日の春の嵐は 桜の見ごろ時というのに、つぼみ達を硬くさせたようにも思えるのですが、一変して拍子抜けするように綺麗に晴れた今朝の天気は、さらに 桜の開花に一喜一憂する小人(しょうじん)の予想を弄ぶように、見ごろの時期を先延ばししたような気がします。。
一年の殆どを それだけを待ち望んでいる私としましては なんともはなはだひどい仕打ちを受けたような、なんで せっかく待っている喜びを奪うかな〜・・と、腹立たしくさえあります。ま 人の手のかかわり及ばぬ世界に文句をいっても・・なのですけれどね。
それでも桜を求めて、今年は逗子の、その名も桜山というところにある、海を見下すあたりにある この地に縁の徳富蘆花たちの作品などや、桜山古墳からの出土品の展示などもしている郷土資料館というところを通りながら、ちょっとした山歩きをして来たのですが、実は それにはわけがありまして・・。
現在の仕事場である久木の部屋が手狭になったため、できればもう一部屋多いところか あるいは借家をと思い、人を頼んだところを見に行ってきたついでもあったのですね。
そこは海に近く、今よりも ちょっとだけ遠くなりますが、でも 静かで日当たりも良いし・・と、環境条件は良かったのですが、何しろ当方に定収が見込めない、(収入に波がある)そして、これまた考えてしまったのですが、私の仕事について理解及ばぬ方の持ち物のようで、できればサラリーマンに貸したい、仕事はしてくれるな、という返事がエージェントを通して返ってきました。そのほか駐車場のことやらあれやらこれやらで、結局 もういいやということにしてしまったのですが、なんとなく釈然としないでいます。
確かに 私の仕事と言うのは、人様相手ではありますが、私の場合は決して値を下げて人数を得て・・というものではありませんから、人の出入りもそれほどなく、一日に多くても3名さま、少ない日は まったくお越しがないことだっていくらもあるほどなのに、結局は「マッサージ」という言葉が先ず妙な響きを持つらしく、エージェントのその言葉を口にするときの顔全体をゆがめて話す話し振りは、確かに嫌悪感を呼ぶものでした。
「マッサージとかメイクとか・・」というその言い方も、いかにも小ばかにしたようだったし、連れ合いの仕事も在宅が多いというと、それにもなんともあきれたような様子を見せるので、結局は職業に貴賎のランク付けをしているんじゃないか と思うと、もうその時点から、こう言う人間の関わりあるものには触れるまい と思ってしまいました。
そのことこのこと思うたびに不快な思いをしているのですが、ひょっと思ったのは、もしかして自分もそういうことをしてこなかっただろうか・・ということでした。
相手が自分の知っていることを知らないというだけで、つまり自分の知っていることがその世界の常識であり当然なことと思っていて、その世界に疎いというだけで、まるで子供に物を教えるような、あるいは こんなことも分からないか、困ったなぁ と言うようなそぶりや口ぶりで応対したことがなかったか・・と 考えてしまったのです。
まさに「それ」が一般常識にして通念であるが如き物言いであったかも・・と思ったとたん、『恥』を知るというか、誰もいないのに目を臥せ、何も言うこともないのに言葉を飲み込むという・・、そんな息苦しい思いになってしまいました。
今年は年明けから、どういうわけかお客様のご利用が多く、とくに2月3月は お断りしなければならない方もあったりして、何の宣伝もせずに、特に儲ける事も考えずに地道に続けていれば、それでもこんな風になったか などとしみじみしているだけならともかく、雑誌や地方紙の取材を断ったりするうちに、いつのまにか天狗になっていたようで・・、なんとも 矮小になりさがった自分が たまらなくいやになりました。
生きていると 本当にいろんなことがあります。まるで関係のないような事柄からでさえも、こうして思い学ぶことがあると、いわゆる"悟される"と言うか、まだまだやり直しても良いというメッセージを受け、思いを新たにすることで『良い者になること』をまだあきらめられていないような気がして、申し訳なくもありがたい希望をもたせていただいた と思えてきもします。
それにしても、人はどんなことからも学ぶものですねぇ。生きているって不思議です。
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