先日 とても不思議な一日を体験した。
その日の朝7時に目がさめてみると、あらゆるものが 厚く固めたゼリーを通して見ているように ぼわぼわして きちんとした像を結ばない。色も形も
それが何なのかも わかりはするが、しかし そのすべてがどうにもはっきりしない。それでもこういう私なので そのうち何とかなるだろうと高をくくり、大して気にもせず
多少の不便を感じつつ、いつものように仕事に出かけた。
しかし 昼が過ぎ、午後からの頼まれ事のために出かけるにあたって さすがの私も心配になってきて、もしこのままこういう状態が続くとしたら・・とやっと思うようになり、先ずは
目医者に連絡しようと試みるが 土曜日の午後のため どこにもアクセスできない。
目のことゆえ 医者の診断の後のほうが・・と良心的な 若い薬局の店長の言葉に だって見えにくいんだもん と 高い目薬を買い求めて試みては見るものの
全くなんの変化もない。
あの日 一体どういうわけでそうなったのか 未だに分からないが、その夜 なれぬ一日にへとへとになって 一旦眠った後、これまた
なぜだかわからぬうちに 私の目はいきなり元に戻ってしまったのだ。 ???
(このことについては 当ホームページ「B−Note」11月9日分 に詳しい。)
私にとっては これまで 目は見えていて 当然だったのだ。
そういう私に あの日の出来事は 丸一日かけて"見える"ということがどういうことなのか"見えにくい"ということがどういうことなのかを
日常を持って知ら示したのだ。
人間の想像力なんて貧弱なものだ。なって見なくては分からないことだらけ。
だからこそ 今ある持てる力を いつだって 出来るだけそれを必要とする人たちと分かち合うことが 求められているのではないか・・。
私は あの日を通じて 今まで 教わってきた言葉が ここに来てしっかりと血肉をつけ、身に沁みて理解を得、これから先の 命ある日々を それに根ざして生きていけという声を
聴いたように思ったのである。
そのための 私に与えられた あらゆる自分の持てるものなのだ。私と同時に在るもの、体 心 考え方 能力 生き方 愛するもの達、人として持っていて当たり前と思っていた
五感、生きることすらも、すべて 必要なところに その力をシェアしていくことが きっと
本当に 自分を生きることになるのだろう・・。
不思議な 貴重な 忘れられない一日の出来事だった。 11月9日に感謝。
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